層塔型の系譜(その5)…倭城の櫓

関ヶ原以降に上げられた初期の層塔型天守はそれぞれ特徴が異なり、それ以前に層塔型があったことを伺えさせます。その対象として想起されるのが朝鮮の役です。日本が明、後に朝鮮半島の支配を狙って始まったこの対外戦争は同時に日本の名護屋、そして朝鮮半島の各地に城郭が築かれることになりました。特に朝鮮半島に築かれた城は「倭城」に分類され、研究の対象になっています。

残念ながら名護屋城や倭城には石垣などは残っていますが、櫓といった建築物は全く残っていません。ただ、図屏風などの絵画資料が幾つかあり、それを基に考察できます。
私は以前、絵画資料はあまりアテにならないとしましたが、望楼型と層塔型の区別程度はしていると考えています。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=23054文化遺産オンライン

  • 順天倭城(『征倭紀功図巻』)


  • 南海倭城(『同上』)

上2つは日本側、下2つは明側の資料です。これらの内、蔚山倭城の全て、また名護屋城の一部の隅櫓が層塔型であることが判ります。また南海倭城にも層塔型と思われる二重櫓が確認できます。
名護屋城は完成後も拡張工事が行われていたことが発掘調査で判明しており、また『肥前名護屋城図屏風』が文禄2年夏の当地を描いているとされます。これはほぼ文禄の役後期に当たり、丁度この頃に在陣する為の倭城が築城されたのは注目に値します。

一方、天守はそれ自体がない蔚山倭城を除いて、名護屋城・順天倭城・南海倭城とも望楼型であることは一目瞭然に見て取れます。これはおそらく天守が象徴であるからと思われます。

層塔型は以前も書きましたが望楼型に比べて簡便な構造である一方、意匠が乏しいという問題があります。名護屋城や倭城は突貫工事で築城されており(蔚山倭城などは僅か40日余でほぼ完成している)、建築しやすい層塔型はうってつけであったでしょう。
しかし、当時の感覚ではまだ層塔型は「安かろう悪かろう」だったのでしょう。象徴たる天守が望楼型であるのはそれが理由と思われます。それ以外にも当時の石垣技術では天守の様な大型の櫓台を築くと、歪みが生じてしまいそれを修正する為の入母屋根を有する望楼型が必要だったという技術的な観点も考えられます。

なお、この簡易建築という発想とは別に見通しを良くするための工夫という考えもできます。例えば、広島城の太鼓櫓は他のが殆ど望楼型なのに対して、層塔型である点に特徴があります。これは下部に入母屋根があると壁になって太鼓の音が響かないという問題に対処するためと思われます。もしかしたら層塔型そのものの発祥はその辺にあるかもしれません。

以上より、おそらく太鼓櫓などの特殊な用途から始まった層塔型は朝鮮の役で求められた、大量且つ短期の建築というニーズに適合したために、実用的な隅櫓として一般的に存在になったと思われます。
しかしそれが故に簡易建築という評価をされ、天守の座を占めることはこの時はできませんでした。層塔型が天守の地位を得るにはもう1つの進化を遂げる必要があり、それが関ヶ原後の最初の3つの層塔型天守なのだと思われます。