層塔型の系譜(その7)…層塔型の系統図

関ヶ原以降の3つの層塔型天守はそれぞれ発展・変化をしていきました。それを図にすると次のようになります。

今治城の類型は比較的早期に加納城の系統へ吸収されていきました。この点について私は以前、今治城天守は元々、慶長度江戸城天守を上げるためのテストベットであったと考えています。構造は今治城・意匠は加納城の特徴を合わせたのが慶長度江戸城天守なのでしょう。

また、日出城は高い逓減率により上が先細りになる欠点を、逆に上部を張り出す唐造にした小倉城天守で解決をしました。この唐造は一般的には小倉城が始まりとしていますが、その影響を受けたという逸話が残る岩国城天守が慶長13年、小倉城天守が『天保八年巡見張』によると慶長15年とあるので実際は逆で岩国城に影響されたのかもしれません*1
小倉城の系譜はその後、唐造以外の特徴は津山城に唐造は高松城に受け継がれますが、そこで終焉を迎えました。

一番、隆盛を究めたのは加納城型でした。これは天下を統べた徳川家の創始した形であるからという点が第一といえるでしょう。しかしそれ以外にも破風や棟高など望楼型の特徴を取り入れることで、違和感なく層塔型天守というものを受け入れらせた点が大きいと言えます。
更に、この加納城型から更に2つの類型がでます。1つは今治城型の低い腰屋根を導入したもの。これは元々、傾斜がきつい屋根は雪害に対応した面が多く、温暖な地方では必要なかったので自然に低くなったと思われます。
もう1つは下層階の平面を同じにする形です。この同一平面の階間に腰屋根を入れるかどうかについてはその時々の状況により異なります。例えば駿府城天守が雨漏りをして、その対策を名古屋城でしたという話があります。
この原因について、

  • 最上階の欄干が浸水した。(内藤昌)
  • 複雑な破風構造が原因。(三浦正幸)

と言う説がありますが、私はこれについては3階まで同一平面で2・3階間に腰屋根がない*2ので、そこから雨が降り込んだと考えています。その為に名古屋城では1・2階間にも腰屋根を追加したと考えられます。
この2つの派生型と本道の加納城天守がその後の層塔型天守の基本となり、層塔型の構造に望楼型の入母屋根を取り入れた復興型が出ながらも、元和以降より江戸幕府の伸長と歩みを合わせるようにして天守全体の主流を占めるに至ったといえます。

*1:なお、岩国城天守は望楼型

*2:1・2階には欄干がある

層塔型の系譜(その6)…層塔型の天守化

それまで簡易構造の隅櫓にのみ用いられてきた層塔型ですが、先述したように関ヶ原合戦直後より天守にも用いられ始めました。

これは

  • 関ヶ原以降の大量築城ブームによる、建築の合理化に天守も巻き込まれた。
  • これまでの望楼型とは異なる形式にして、人心に時代の移り変わりを認識させた。

といった理由が考えられます。

しかしこの時にそのまま層塔型を天守にすることは躊躇われた様で、その先頭に立った3つの天守加納城・日出城・今治城先に述べたそれぞれの特徴を有しました。これについて、

  • 加納城岐阜城天守の望楼型の特徴である破風や高い棟高、大きい逓減率を多く受け継いでいる。
  • 日出城は大きい逓減率は望楼型の、破風の無い点や低い棟高はそれ以前の層塔型の特徴を受け継いでいる。
  • 今治城は高い棟高や最上階の破風・欄干に望楼型の、小さい逓減率や最上階以外の破風が無い点は層塔型の特徴を有している。

となっており、それぞれ層塔型を基本構造としつつも、そこに旧来の天守であった望楼型の特徴を取り入れています。

これら3つ形式から始まった層塔型の天守はそれぞれ新たな意匠を取り入れることで、発展や衰退の道を辿ります。これについては次回ということで。

層塔型の系譜(その5)…倭城の櫓

関ヶ原以降に上げられた初期の層塔型天守はそれぞれ特徴が異なり、それ以前に層塔型があったことを伺えさせます。その対象として想起されるのが朝鮮の役です。日本が明、後に朝鮮半島の支配を狙って始まったこの対外戦争は同時に日本の名護屋、そして朝鮮半島の各地に城郭が築かれることになりました。特に朝鮮半島に築かれた城は「倭城」に分類され、研究の対象になっています。

残念ながら名護屋城や倭城には石垣などは残っていますが、櫓といった建築物は全く残っていません。ただ、図屏風などの絵画資料が幾つかあり、それを基に考察できます。
私は以前、絵画資料はあまりアテにならないとしましたが、望楼型と層塔型の区別程度はしていると考えています。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=23054文化遺産オンライン

  • 順天倭城(『征倭紀功図巻』)


  • 南海倭城(『同上』)

上2つは日本側、下2つは明側の資料です。これらの内、蔚山倭城の全て、また名護屋城の一部の隅櫓が層塔型であることが判ります。また南海倭城にも層塔型と思われる二重櫓が確認できます。
名護屋城は完成後も拡張工事が行われていたことが発掘調査で判明しており、また『肥前名護屋城図屏風』が文禄2年夏の当地を描いているとされます。これはほぼ文禄の役後期に当たり、丁度この頃に在陣する為の倭城が築城されたのは注目に値します。

一方、天守はそれ自体がない蔚山倭城を除いて、名護屋城・順天倭城・南海倭城とも望楼型であることは一目瞭然に見て取れます。これはおそらく天守が象徴であるからと思われます。

層塔型は以前も書きましたが望楼型に比べて簡便な構造である一方、意匠が乏しいという問題があります。名護屋城や倭城は突貫工事で築城されており(蔚山倭城などは僅か40日余でほぼ完成している)、建築しやすい層塔型はうってつけであったでしょう。
しかし、当時の感覚ではまだ層塔型は「安かろう悪かろう」だったのでしょう。象徴たる天守が望楼型であるのはそれが理由と思われます。それ以外にも当時の石垣技術では天守の様な大型の櫓台を築くと、歪みが生じてしまいそれを修正する為の入母屋根を有する望楼型が必要だったという技術的な観点も考えられます。

なお、この簡易建築という発想とは別に見通しを良くするための工夫という考えもできます。例えば、広島城の太鼓櫓は他のが殆ど望楼型なのに対して、層塔型である点に特徴があります。これは下部に入母屋根があると壁になって太鼓の音が響かないという問題に対処するためと思われます。もしかしたら層塔型そのものの発祥はその辺にあるかもしれません。

以上より、おそらく太鼓櫓などの特殊な用途から始まった層塔型は朝鮮の役で求められた、大量且つ短期の建築というニーズに適合したために、実用的な隅櫓として一般的に存在になったと思われます。
しかしそれが故に簡易建築という評価をされ、天守の座を占めることはこの時はできませんでした。層塔型が天守の地位を得るにはもう1つの進化を遂げる必要があり、それが関ヶ原後の最初の3つの層塔型天守なのだと思われます。

層塔型の系譜(その4)…層塔型の3つの類型

慶長7年に上がった美濃加納城御三階と豊後日出城天守、そしてそれより少し後(慶長7年から慶長9年)に完成したと思われる伊予今治城天守*1、この3つはそれぞれ層塔型といっても様々な相違点がありました。

  • 加納城…破風を有する、腰屋根が高い、棟高が高い、逓減率が大きい
  • 日出城…破風が無い、腰屋根が低い?*2、棟高が低い、逓減率が大きい
  • 今治城…破風が無い、腰屋根が低い、棟高が高い、逓減率が小さい

この様に層塔型の初期、それもほぼ同時にそれぞれ異なる形状を有していたことが判ります。もし関ヶ原合戦後に始めて層塔型が創出されたとしても、この様に最初から様々な層塔型が出来るとは思えません。
現在では様々な形態へと進化していった哺乳類が、恐竜が滅ぶまでは彼らに圧迫されてネズミのような形態でしか無かったように、層塔型も関ヶ原前の前史があったあったはずです。

そして関ヶ原合戦の前にある築城ラッシュはある1つの分類に集約されます。
それが「倭城」です。
つづく。

*1:丹波亀山城と同じ物とする。なお、発掘調査では礎石などは確認できなかったとあるが、本項は文献の記述を優先する。

*2:これに続く小倉城より推測

層塔型の系譜(その3)…慶長7年の層塔型(日出城)

慶長7年に上げられたのが確実なもう1つの層塔型天守が豊後の日出城です。この城は木下延俊*1の城ですが、その築城は隣接した細川忠興の全面協力があったとされています。
これは忠興と延俊が義兄弟の仲で、関ヶ原合戦時もおそらくその関係で延俊が東軍に付いたとされています。当然、移封に際してこの2人が隣接地に封地を置かれたのも偶然ではないでしょう。

日出城の築城を助けたのも義兄弟の仲だけではなく、横に長い細川家の領地(豊前+国東半島)の南方翼端守備を担わせるつもりがあったのでしょう。また、それとは別に自身の本城(小倉城)を築城する前のテストベットにするつもりもあったようです。
この様な経緯で、日出城は慶長6年秋頃から翌年の8月頃という短期間で完成しました。その天守は明治まで残った後に破却されましたが残念ながら写真などは残っておらず、ただ複数の記録と絵図があるのでそこから様相を知ることができます。

記録によると日出城天守は3重3階の層塔型で下見板張り、破風のないシンプルな形とあります。寸法については複数の資料があり、以下に記します。

明治3年の実測記録
 高さ:5丈1尺
 1重:8間2尺×7間3尺(東西×南北)
 2重:5間×4間
 3重:4間×3間
 付記:本丸より天守台まで1丈6尺、西側に4間3尺四方の付櫓

旧記
 海側の天守高さ:18丈7寸
 城内の天守高さ:6丈7尺

嘉永元年の記録
 1重:8間×9間半(東西×南北)、120枚(畳)
 2重:5間×6間、40枚
 3重:4間×5間、20枚


『正保城絵図』下側左寄にある3重櫓が天守
なお『城絵図』には天守は7間×8間、天守台実測図は9間×8間2尺(東西×南北)となっています。
色々と相違があるので、これ以降は基本的に明治時代の実測図を基に話を進めます。

この城の縄張りは細川忠興が行った一方、天守木下家定が行ったとされています。ただし、この天守は後に忠興が上げる小倉城天守に影響を与えたと思われる点が多くあります。
日出城天守の特徴は1重目と2重目の大きな逓減率、1重目平面とほぼ同じという低い棟高(1丈=10/6間)、破風が無い点が上げられます。これはどれも小倉城天守に受け継がれ*2、また前二者の特徴から小倉城と同じく日出城も屋根の傾斜が緩く高さも低いと思われます。
日出城は1重と2重を逓減率を大きくしたので、それより上が大幅に小さくなり2重と3重の間は逓減率を小さくするという締まらない結果となってしまい、先細りの印象を与えることになってしまいました。おそらく忠興はこれを教訓にして、小倉城天守の最上階を張り出す唐造にしたと思われます。

参考資料

名城の「天守」総覧―目で見る天守の構成と実像 (歴史群像デラックス版 5)

名城の「天守」総覧―目で見る天守の構成と実像 (歴史群像デラックス版 5)

*1:秀吉の正室ねねの兄、木下家定の三男、五男の弟は小早川秀秋

*2:例えば逓減率は1重15間×13間が3重まで3間づつ逓減している。

層塔型の系譜(その2)…慶長7年の層塔型(加納城)

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以降、日本では空前絶後の築城ブームが発生します。これは関ヶ原合戦の論功行賞により各地の大名が移封され、新たな封地で築城を行ったためです。
この中で初期の慶長7年に層塔型の天守が上げられた例が少なくとも2例確認されています。それが美濃の加納城と豊後の日出城です。

今回は先ず加納城について説明を始めます。
加納城関ヶ原合戦時に落城した岐阜城の代わりに徳川家康が築城を命じた城で、本多忠勝を普請奉行として周辺の大名を動員した天下普請として築城が行われています。岐阜城の代わりとあって家康はこの城にかなり注目しており、築城前に予定地を見て回ったり、手伝普請衆が遅れて到着したことに不満を漏らしてたりしています。
工事は突貫工事であった様で周辺の岐阜城や川手城から石垣・土・建物を転用し、更には周辺の民家までも転用したと伝えられています。慶長7年7月より始まった工事は完成までに3年を要したようですが、9月には既に城主の奥平信昌・忠政親子がそれぞれ本丸・二ノ丸に入ったといいますので、この時点で早くも城の中心部は完成していたと思われます(『当代記』『奥平家譜』)。

さて、加納城には本丸に天守台はありましたが天守は上げられませんでした。その代わりに二ノ丸に御三階櫓が上げられ、これが実質的な天守となっていました。この御三階は享保13年に焼失してしまいましたが、幸いにも直後に大工が作成した平側の図面と1階平面規模の指図が残っています。

加納城御三階図
平面図は平側が京間7間で柱間6間、妻側は京間6間で柱間も6間とそれぞれの柱間の長さが異なります。

図を見ても判るとおり、この御三階は望楼型の特徴である入母屋根が最上階以外にはなく*1、層塔型と言えます。

ただこの天守は1重目が2階建てで、さらに1重目と2重目の柱間の長さも異なるなどと特徴が多い構造をしています。これはこの御三階が岐阜城天守の移築で、望楼型から層塔型への変更が行われた結果と考えられています*2

この加納城御三階については城戸久氏や西ヶ谷恭弘氏が触れています。ただ城戸氏は岐阜城の復元でこの御三階にふれていましたが、これが層塔型であることをぼかしています。

名城の「天守」総覧―目で見る天守の構成と実像 (歴史群像デラックス版 5)

名城の「天守」総覧―目で見る天守の構成と実像 (歴史群像デラックス版 5)

この天守の層塔型としての特徴は1重平面に対して棟高が高い*3、屋根の傾斜がきつい(よって屋根が高い)、破風がある点です。これは後の徳川系天守ひいては層塔型の特徴となり、層塔型を語る上でエポックメイキング的な存在となります。

*1:1重目も屋根のラインが破風に繋がらず、2重目の壁面に繋がっているので、この破風は入母屋破風ではなく千鳥破風といえる。

*2:例えば、1重目の2階構造は望楼型の重箱櫓部分(1重と2重が同一平面の櫓、初期の望楼型はこの上に望楼を載せる例が多い)の名残と考えられる。

*3:修正:逓減率が小さいというのは望楼型の改造故か、加納城では見いだせない。

層塔型の系譜(その1)…これまでの通説

日本の城郭に設けられている櫓(天守も含む)の形式は望楼型と層塔型の2種に大別されるのは良く知られています。

望楼型と層塔型の比較図(左:望楼型、右:層塔型)

これらの内、層塔型については望楼型より後に出現しているので、その初例が何であるかについて色々と研究がなされています。今回は現在の定説になっている丹波亀山城(または今治城天守について解説をします。

丹波亀山城は慶長15年(1610年)の2月から8月にかけて大修築が行われて現在の規模になった城郭です。この時上げられた天守は破風のない五重天守で、ただ五重目に欄干と入母屋破風と軒唐破風があるだけのシンプルな設計でした。
この天守については城戸久氏と三浦正幸氏による紹介と復元案があります。
丹波亀山城天守考(城戸久)
丹波亀山城天守の復元(三浦正幸)
(以上、国立情報学研究所より)

この天守藤堂高虎が上げたもので、藤堂家の記録によれば今治城天守(慶長7年から9年)の移築としています。上記では両者は今治城天守の形式には触れていませんが、三浦氏は別書にてほぼ同型の天守今治城の本丸中央に直接建っていたとしています(『【決定版】図説・天守のすべて』より)。

また、城戸氏以前には藤岡通夫氏が層塔型について考察をしていますが、資料の関係から上記よりも更に後退してその始まりを慶長14〜15年頃としています。なお、藤岡氏は層塔型についてあまりにも杓子定規に規定しているフシが見られます。
層塔式天守の一考察
国立情報学研究所より)

これまでの通説では丹波亀山城今治城のどちらかが層塔型天守の初例とし、双方ともを手掛けた藤堂高虎が層塔型の考案者とされています。しかしそれに疑問を投げかける資料があります。それについては次回に説明します。