層塔型の系譜(その2)…慶長7年の層塔型(加納城)
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以降、日本では空前絶後の築城ブームが発生します。これは関ヶ原合戦の論功行賞により各地の大名が移封され、新たな封地で築城を行ったためです。
この中で初期の慶長7年に層塔型の天守が上げられた例が少なくとも2例確認されています。それが美濃の加納城と豊後の日出城です。
今回は先ず加納城について説明を始めます。
加納城は関ヶ原合戦時に落城した岐阜城の代わりに徳川家康が築城を命じた城で、本多忠勝を普請奉行として周辺の大名を動員した天下普請として築城が行われています。岐阜城の代わりとあって家康はこの城にかなり注目しており、築城前に予定地を見て回ったり、手伝普請衆が遅れて到着したことに不満を漏らしてたりしています。
工事は突貫工事であった様で周辺の岐阜城や川手城から石垣・土・建物を転用し、更には周辺の民家までも転用したと伝えられています。慶長7年7月より始まった工事は完成までに3年を要したようですが、9月には既に城主の奥平信昌・忠政親子がそれぞれ本丸・二ノ丸に入ったといいますので、この時点で早くも城の中心部は完成していたと思われます(『当代記』『奥平家譜』)。
さて、加納城には本丸に天守台はありましたが天守は上げられませんでした。その代わりに二ノ丸に御三階櫓が上げられ、これが実質的な天守となっていました。この御三階は享保13年に焼失してしまいましたが、幸いにも直後に大工が作成した平側の図面と1階平面規模の指図が残っています。
加納城御三階図
平面図は平側が京間7間で柱間6間、妻側は京間6間で柱間も6間とそれぞれの柱間の長さが異なります。
図を見ても判るとおり、この御三階は望楼型の特徴である入母屋根が最上階以外にはなく*1、層塔型と言えます。
ただこの天守は1重目が2階建てで、さらに1重目と2重目の柱間の長さも異なるなどと特徴が多い構造をしています。これはこの御三階が岐阜城天守の移築で、望楼型から層塔型への変更が行われた結果と考えられています*2。
この加納城御三階については城戸久氏や西ヶ谷恭弘氏が触れています。ただ城戸氏は岐阜城の復元でこの御三階にふれていましたが、これが層塔型であることをぼかしています。
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この天守の層塔型としての特徴は1重平面に対して棟高が高い*3、屋根の傾斜がきつい(よって屋根が高い)、破風がある点です。これは後の徳川系天守ひいては層塔型の特徴となり、層塔型を語る上でエポックメイキング的な存在となります。