考察

層塔型の系譜(その7)…層塔型の系統図

関ヶ原以降の3つの層塔型天守はそれぞれ発展・変化をしていきました。それを図にすると次のようになります。今治城の類型は比較的早期に加納城の系統へ吸収されていきました。この点について私は以前、今治城天守は元々、慶長度江戸城天守を上げるためのテス…

層塔型の系譜(その6)…層塔型の天守化

それまで簡易構造の隅櫓にのみ用いられてきた層塔型ですが、先述したように関ヶ原合戦直後より天守にも用いられ始めました。これは 関ヶ原以降の大量築城ブームによる、建築の合理化に天守も巻き込まれた。 これまでの望楼型とは異なる形式にして、人心に時…

層塔型の系譜(その5)…倭城の櫓

関ヶ原以降に上げられた初期の層塔型天守はそれぞれ特徴が異なり、それ以前に層塔型があったことを伺えさせます。その対象として想起されるのが朝鮮の役です。日本が明、後に朝鮮半島の支配を狙って始まったこの対外戦争は同時に日本の名護屋、そして朝鮮半…

層塔型の系譜(その4)…層塔型の3つの類型

慶長7年に上がった美濃加納城御三階と豊後日出城天守、そしてそれより少し後(慶長7年から慶長9年)に完成したと思われる伊予今治城天守*1、この3つはそれぞれ層塔型といっても様々な相違点がありました。 加納城…破風を有する、腰屋根が高い、棟高が高い、…

層塔型の系譜(その3)…慶長7年の層塔型(日出城)

慶長7年に上げられたのが確実なもう1つの層塔型天守が豊後の日出城です。この城は木下延俊*1の城ですが、その築城は隣接した細川忠興の全面協力があったとされています。 これは忠興と延俊が義兄弟の仲で、関ヶ原合戦時もおそらくその関係で延俊が東軍に付い…

層塔型の系譜(その2)…慶長7年の層塔型(加納城)

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以降、日本では空前絶後の築城ブームが発生します。これは関ヶ原合戦の論功行賞により各地の大名が移封され、新たな封地で築城を行ったためです。 この中で初期の慶長7年に層塔型の天守が上げられた例が少なくとも2例確認され…

層塔型の系譜(その1)…これまでの通説

日本の城郭に設けられている櫓(天守も含む)の形式は望楼型と層塔型の2種に大別されるのは良く知られています。 望楼型と層塔型の比較図(左:望楼型、右:層塔型)これらの内、層塔型については望楼型より後に出現しているので、その初例が何であるかについ…

江戸城天守の東照宮

東照宮といえば徳川家康を祀る御宮として各地に造営されましたが、江戸城内では紅葉山の東照宮*1が有名ですが、その他にも二ノ丸東照宮がありました。しかも2つもあり、1つは本丸と二ノ丸の間に、もう1つは二ノ丸御殿の一部としてあったようです。ここで注目…

望楼型と層塔型の建築期間

以前、 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100621/1277122137 こちらで層塔型は望楼型よりシンプルな形状と書きましたが、今回はそれを建設期間という点で見てみます。 望楼型 安土城普請(『よみがえる真説安土城』) 天正5年8月24日…天守柱立て 天正5年11月…

慶長度江戸城天守の考察(その10)…まとめ

確認すると慶長度については自分の考えをまとめていないので、簡単に書きます。 天守・天守台の構造は宮上茂隆氏の案が正しいと判断する。その理由は 『愚子見記』の記述より慶長度江戸城天守が逓減していることから層塔型と判断できる*1。 慶長度天守を中井…

元和度江戸城天守の考察(その3)…まとめ

資料を出尽くしましたので、まとめます。 慶長度本丸・天守の工事は京大工方の中井正清が主導していたが、元和度では京大工方の中井正侶と譜代の木原・鈴木方*1鈴木長次の二人が主導した。 中井正清と鈴木長次の関係は家康の頃には長次が建築した仙波本堂の…

元和度江戸城天守の考察(その2)…2人の大工

今日は元和度江戸城天守を手掛けたと思われる2人の大工棟梁、中井大和守正侶と鈴木近江守長次について説明をします。中井正侶(1600〜1631) 京大工中井正清(1565〜1619)の子で中井家2代目、長吉郎。正清の死後に家督を継ぐが、若年のために家老的立場であ…

元和度江戸城天守の考察(その1)…元和度の江戸城工事について

さて前回にお話した通り、元和度の江戸城天守について考察を始めます。 もっともあらかじめ結論を言うと「よく解らない」となりますので、その時点で嫌だと思う方はご覧にならないほうが良いかと思います。さて、元和度の工事は神田川の開削工事*1、内郭の城…

今後の方針

さて、これまでから慶長度江戸城天守は層塔型であると私は考えています。かといって即、「『中井家指図』は慶長度江戸城天守のもの」と断言は出来かねる点があります。宮上茂隆氏が元和度とする津軽家の『江戸御殿守絵図』はその来歴が不明なので、即座に断…

慶長度江戸城天守の考察(その9)…層塔式のハードル

内藤昌氏案の慶長度江戸城天守が高欄付きの望楼式であるという論拠は 高欄については二条城・伏見城は意識的に高欄のある絵図を選択した。駿府城は物見の段という名称のみで、2階の様に高欄があるとは資料には記述されていない。 形式については二条城(1602…

慶長度江戸城天守の考察(その8)…あまりアテにはできない絵図(江戸城編)

最後に本題の江戸城となります。もっとも江戸城天守は慶長・元和・寛永の3度にわたり上げられていますが、残念ながら慶長度とされている絵はないのが現状です。その為、ここに挙げれるのは元和度か寛永度と評価されているものです。 どの時代の天守か確定し…

慶長度江戸城天守の考察(その7)…あまりアテにはできない絵図(二条・伏見城編)

次は最も多く残っている二条城・伏見城天守についてです。この時代の京は『洛中洛外図屏風』として多くの作品が残されており右隻に方広寺、左隻に二条城という豊臣と徳川の権力の象徴を並べることが特徴でした。また右隻の端には強引に伏見城(ただしこれは…

慶長度江戸城天守の考察(その6)…あまりアテにはできない絵図(大坂城編)

『中井家指図』を元和度とし、慶長度天守を望楼式とした内藤昌氏ですが、彼がその根拠としたのは『洛中洛外図』に描かれた伏見城や二条城、『江戸名所図屏風』や『武州豊島郡江戸庄図』といった絵画資料を主としています。 しかし良く『決定的』とも言われる…

慶長度江戸城天守の考察(その5)…江戸城の3つの天守

さて、宮上案によると江戸城天守は破風や瓦の葺き方、壁面などに異なる点はあるものの基本構造は同じということになります。その辺を一覧にしてみます。 慶長度天守(1607〜1622) 規模…1階平面規模(18間×16間)、5階平面規模(7間5尺×5間5尺)、7尺間(5階…

慶長度江戸城天守の考察(その4)…『中井家指図』の位置付け(元和度天守)

さて、慶長度江戸城天守が5重5階の層塔式とすると浮上するのが『中井家指図』を用いた宮上茂隆氏の復元案です。 中井家指図、宮上茂隆案 しかし『中井家指図』は内藤・三浦氏は元和度天守としています*1。 これに対して宮上氏は津軽家に伝わる『江戸御殿守絵…

慶長度江戸城天守の考察(その3)…いわゆる前期層塔式というものについて

天守・櫓の形式を説明する本では前期望楼式(例:犬山城)、後期望楼式(例:姫路城)、層塔式(例:宇和島城)で分類されています。しかし最近は用いられなくなりましたが、以前は層塔式も前期と後期に分けて論じられていた時代がありました。 内藤昌氏がよ…

慶長度江戸城天守の考察(その2)…天守の形式について

城郭の櫓は天守も含めて2重以上のものは望楼式と層塔式の2種に分類されます。 望楼式は入母屋造の上部に望楼を載せた形、層塔式は各階を規則正しく逓減させた点に特徴があります。 櫓(5重)の内部概要図 左が望楼式、右が層塔式。望楼式は3つの建築物が積み…

慶長度江戸城天守の考察(その1)…天守の重・階数について

先ず天守の外見は何重で、内部は何階であるかを考察します。これまでの史料・復元案で出されたのは史料 『慶長見聞集』 然レバ家康公興サセラルゝ江城ノ殿守ハ五重、鉛瓦ニテ葺キ給ウ。富士山ニ並ビ、雪ノ嶺ニ聳エ、夏モ雪カト見エテ面白シ。 『毛利三代実録…