元和度江戸城天守の考察(その1)…元和度の江戸城工事について
さて前回にお話した通り、元和度の江戸城天守について考察を始めます。
もっともあらかじめ結論を言うと「よく解らない」となりますので、その時点で嫌だと思う方はご覧にならないほうが良いかと思います。
さて、元和度の工事は神田川の開削工事*1、内郭の城門工事などがありますが、天守に関連する工事としては元和8年に行われた本丸の拡張工事が行われています。
この工事は幕府の安定化にともなって手狭になった本丸御殿の拡充が求められたためで、その為に北にある出丸(下図参照、本丸と北の丸に挟まれた2つの曲輪が出丸)を本丸に取り込む工事が行われました。
この拡張した部分に大奥が、そして北*2に新たな天守台が造られ、次いで天守もあがりました。
本丸の工事は元和8年(1623年)2月18日に始まり、本丸御殿は同年11月10日に秀忠が移っているのでそれ以前に完成。天守台は元和9年3月18日に完成し、天守も年内に完成したと考えられています。
さてこの工事に関わった人物をあげますと、天守台工事は奉行が阿部正之、手伝普請として浅野長晟・加藤忠広ら、本丸御殿は表向を奉行が土井利勝で大工棟梁は中井正侶*3、奥向を奉行が酒井忠世で大工棟梁は鈴木長次が行っていました。天守は奉行が青山忠俊であることは判っていますが、大工が誰であるかは判明していません。
本丸御殿の作事を見て、天守の作事を中井正侶か鈴木長次のどちらかが行ったのは間違いありません。そこで今度はこの2人に付いて解説を行なおうと思います。