層塔型の系譜(その3)…慶長7年の層塔型(日出城)
慶長7年に上げられたのが確実なもう1つの層塔型天守が豊後の日出城です。この城は木下延俊*1の城ですが、その築城は隣接した細川忠興の全面協力があったとされています。
これは忠興と延俊が義兄弟の仲で、関ヶ原合戦時もおそらくその関係で延俊が東軍に付いたとされています。当然、移封に際してこの2人が隣接地に封地を置かれたのも偶然ではないでしょう。
日出城の築城を助けたのも義兄弟の仲だけではなく、横に長い細川家の領地(豊前+国東半島)の南方翼端守備を担わせるつもりがあったのでしょう。また、それとは別に自身の本城(小倉城)を築城する前のテストベットにするつもりもあったようです。
この様な経緯で、日出城は慶長6年秋頃から翌年の8月頃という短期間で完成しました。その天守は明治まで残った後に破却されましたが残念ながら写真などは残っておらず、ただ複数の記録と絵図があるのでそこから様相を知ることができます。
記録によると日出城天守は3重3階の層塔型で下見板張り、破風のないシンプルな形とあります。寸法については複数の資料があり、以下に記します。
明治3年の実測記録
高さ:5丈1尺
1重:8間2尺×7間3尺(東西×南北)
2重:5間×4間
3重:4間×3間
付記:本丸より天守台まで1丈6尺、西側に4間3尺四方の付櫓
嘉永元年の記録
1重:8間×9間半(東西×南北)、120枚(畳)
2重:5間×6間、40枚
3重:4間×5間、20枚
『正保城絵図』下側左寄にある3重櫓が天守
なお『城絵図』には天守は7間×8間、天守台実測図は9間×8間2尺(東西×南北)となっています。
色々と相違があるので、これ以降は基本的に明治時代の実測図を基に話を進めます。
この城の縄張りは細川忠興が行った一方、天守は木下家定が行ったとされています。ただし、この天守は後に忠興が上げる小倉城天守に影響を与えたと思われる点が多くあります。
日出城天守の特徴は1重目と2重目の大きな逓減率、1重目平面とほぼ同じという低い棟高(1丈=10/6間)、破風が無い点が上げられます。これはどれも小倉城天守に受け継がれ*2、また前二者の特徴から小倉城と同じく日出城も屋根の傾斜が緩く高さも低いと思われます。
日出城は1重と2重を逓減率を大きくしたので、それより上が大幅に小さくなり2重と3重の間は逓減率を小さくするという締まらない結果となってしまい、先細りの印象を与えることになってしまいました。おそらく忠興はこれを教訓にして、小倉城天守の最上階を張り出す唐造にしたと思われます。
参考資料
名城の「天守」総覧―目で見る天守の構成と実像 (歴史群像デラックス版 5)
- 作者: 日本城郭史学会,西ヶ谷恭弘
- 出版社/メーカー: 学研プラス
- 発売日: 1994/06
- メディア: 大型本
- 購入: 1人 クリック: 34回
- この商品を含むブログ (1件) を見る