元和度江戸城天守の考察(その2)…2人の大工

今日は元和度江戸城天守を手掛けたと思われる2人の大工棟梁、中井大和守正侶と鈴木近江守長次について説明をします。

中井正侶(1600〜1631)
 京大工中井正清(1565〜1619)の子で中井家2代目、長吉郎。正清の死後に家督を継ぐが、若年のために家老的立場であった正清の従兄弟、中井利次(1580〜1626、信濃守または伊豆守)の後見を受ける。1627年に大和守、従5位下を授かり、1000石の所領を受け継ぎ、諸処の建築に携わるが32歳で死去。子は無く正清の末弟正純の子、政知を養子とするが幼年の為に正純が後見した(この時、所領は500石となる)。
 家康に重用された正清の時分に比べて、正侶の頃になると江戸の譜代大工の技術向上や秀忠の彼らへの優遇により、この頃より中井家の権勢は陰りを見せ始めていた。

手掛けた建築(前後の正清・正純の事績も掲載、公儀作事)
正清

正侶

  • 1620年…愛宕社堂
  • 1622年江戸城本丸御殿表向
  • 1624年…大坂城(〜1627年)
  • 1625年…二条城御殿
  • 1628年…院御所(〜1630年)、上賀茂社、下加茂社、河合社、貴布禰社
  • 1630年…清水寺本堂・講堂(〜1631年)

正純

『大工頭中井家建築指図集―中井家所蔵本』より(この他『中井家文書』によると、1617年の日光東照宮作事に正侶は利次と共に参加している

大工頭中井家建築指図集―中井家所蔵本

大工頭中井家建築指図集―中井家所蔵本


鈴木長次(1581〜1635)
 譜代大工木原方の大工。木原氏は元々は鈴木氏を名乗っていたが、家康が所領の木原で呼んでいたことから3代木原吉次(〜1610)の時に苗字を木原に替えている。吉次は浜松城築城の惣奉行を勤め、1590年の関東移封時にも家康に従い江戸の建設に従事している。1602年に4代重次、1610年に吉次、そして1612年に秀忠に重用された5代家次が死去すると、当時4歳であった義久が家督を継ぎ叔父の次房が後見を行い、作事については鈴木長次がこれを担うことになる。
 義久は後に寛永天守の棟梁を務めているが、この頃は彼ら譜代大工は事務監督が主になり、実際の工事は新参の甲良・平内・鶴氏が担うことになる。

 浜松で生まれた鈴木長次(与八郎、近江守)は1600年に父與八郎が70歳で死去すると、家督を継いでいる。長次の家は家康の関東移封に付いて行かなかったが、家督を継いだこの頃に木原吉次に招かれて江戸に移住している。
 大工としては27歳に1613年の池上本門寺五重塔より活躍を始め、1610年に吉次が死去して以降は秀忠に重用されるようになり、同年に武蔵・相模・上野・下野・上総・常陸で山林の良材を選ぶ作業の監督をし、大坂の役でも従軍している。1616年に家康が死去して、秀忠が実権を握ると側近として重用され諸処の建築を監督する。また秀忠主催の茶席にも度々招かれていた。
 1630年に200石加増され500石となり木原氏の750石に次ぐ所領を有する。また、義久と次房の家督相続問題にも介入している。1632年には新たに設置された作事方の大工頭となり、1635年に55歳で他界している。その後の鈴木家は孫の長頼までの事績が知られているが、その後は不明である。

手掛けた建築(死後も彼の設計を元に建築された建物が多くある)

身延山五重塔の復元 久遠寺五重塔復元工事の記録』より

正清の時代には中井家は京だけでなく江戸・日光や駿府、名古屋にも手を広げていましたが、正侶の代になると技術的な問題であろう江戸城本丸御殿の表向(大屋根を架けていたと思われる)以外は京周辺に活動範囲を限定され、代わりに江戸譜代大工の木原・鈴木家が伸長しているのが判ります。
この流れは先に記したように江戸大工の技術に長足の進歩が見られた、秀忠に代が変わったことによって大御所体制の払拭が行われたといった理由が考えられます。