元和度江戸城天守の史料(その7)…鈴木長次と中井正侶の関係

今日は鈴木長次と中井正侶の両者の関係を『大工頭 中井家文書』より読んでみます。

大工頭中井家文書

大工頭中井家文書

徳川大坂城作事について

[二三五]鈴木遠江書状(折紙)
   以上
一筆申入、然者大坂御城御本丸御指図被仰付候ニ付而、有増致指図上ケ申候処ニ御材木之支度為可然ニ致指図上せ候へ由御年寄衆被仰付候ニ付而致指図進候、究ハ不致候へ共先此指図を以御材木之注文可成候、尚指図究次第跡ゟ可申入候、委細者越前殿ゟ可被仰入候条不能細筆候、恐惶謹言
 六月三日    鈴木遠江
            長(花押)
中井大和様
   人々御中

寛永二条城作事について

[二五五]鈴木遠江書状(切紙)
 猶々、大さしつニかき付致候、萬事くわしく儀ハ角太参候時具可申入候、以上 此文御城ニてかき申候所早々申候
両度之御書中拝見申候、然者二条二ノ丸おくの御座之間御このみ之間さしつ致□□さしつニてしれかね申候間おおさしつ致候、委細者角太参候時可申入候、恐惶謹言
  七月九日    長(花押)

[二二一]板倉重宗書状(折紙)
 去十六日之御状同廿一日ニ参着申候 以上
(中略)
将軍様御座所鈴木遠江所ゟ参候、指図のことく被仰付之由尤ニ存候
(後略)
 七月廿二日    板周防守
            重宗(花押)
 中井大和守殿
       御返報

なお、鈴木遠江は『元寛日記』の元和2年正月の年始祝いに「御前通ニ鈴木遠江、奈良大和、落縁ニ者諸職人並居而御禮、」とあり、鈴木長次は遠江の出身なので同一人物と思われます*1

また正清と長次の交流については

[一〇六]鈴木近江長以*2書状(折紙)
 猶以万事御取籠にて御座可有候へとも、此度相済申候へハ何とも罷不成候間、御才覚頼申候。銀子手形出申候ハヽ貴様之御人なりとも又ハ又五郎殿人成共御もたせ候て可被下候、偏々ニたのみ申候、以上
一書申入候、仍和州様路地中何事無御座御上り付被成候哉、無御心元奉存候、御ひまも候ハヽ可然様ニ可仰上候、将亦先度申候仙波本堂之入目之義、銀子之高四拾八貫弐百四拾目の和州様御くら判にて御座候、此内三拾貫目先度請取申候、残る拾八貫弐百四拾目之銀子相渡り申候様ニ其元御才覚被成へく候、幸伊丹喜之助殿其元ニ御座候間御極候様ニ和州様江御物語可有候、若銀子之儀相済申候ハヽ御大儀ニ御座候共、貴殿の人を壱人切手ニ相そへ御越候而可被下候頼申候、何事も〳〵重而可申入候、恐々謹言
        鈴木近江
 七月十日    長以(花押)
 
 松等安様
    人々御中

また後藤光次書状から、内裏工事時に遠州浜松大工(木原・鈴木方の事)が派遣されていたことが判ります*3

以上より正清の頃は鈴木長次は仙波本堂(1614年)の建築経費を、勘定奉行伊丹康勝の指示ではありながらも正清より貰うなど、中井家の下位に有ることが解ります。
しかし正侶の頃には逆に大坂城(1620〜29年)本丸指図や二条城(1624〜26年)二ノ丸御殿御座所の工事で、鈴木長次の図面や指示・仲立ちを必要としています。

(修正:『大坂城の歴史と構造』によるとこの文章は本丸御殿の設計を鈴木長次が行ったとしており、その場合は長次の権勢が上記より更に増していることになります。)

大坂城の歴史と構造

大坂城の歴史と構造

『愚子見記』には元和度天守について
「七、江戸御殿守 元和八年、寛文十一迄五十年。是ハ諸事ヲ台徳院様御好也。奉行者青山伯耆守殿。」
とあります。これまでの関係を見る限りでは秀忠の「お好み」の大工は中井正侶でなく、鈴木長次であると言えます。

*1:奈良大和は奈良法隆寺の生まれである中井大和守正清と思われ、ここからこの当時の幕府大工の双壁は彼らであった事が想像できます。

*2:長以の以は次の誤読か。

*3:『大工頭 中井家文書』[三三一]