元和度江戸城天守の考察(その3)…まとめ

資料を出尽くしましたので、まとめます。

  • 慶長度本丸・天守の工事は京大工方の中井正清が主導していたが、元和度では京大工方の中井正侶と譜代の木原・鈴木方*1鈴木長次の二人が主導した。
  • 中井正清と鈴木長次の関係は家康の頃には長次が建築した仙波本堂の経費を正清より貰ったり、禁裏造営時に旗下の大工が京に派遣されるといった正清の下に長次が位置していたが、正侶の代になると逆に寛永二条城の二ノ丸御座之間は長次の設計の図面を用い、また徳川大坂城本丸の建築では幕閣に設計案の許可を得るには長次を介する必要があり*2力関係が逆転していた。これは正清は家康に、長次は秀忠に重用されていたからである。
  • 後代の中井家資料には元和8年の元和度天守を築造したのは中井家としているが、資料や当時の中井家文書*3には御殿の表向(大屋根が必要な大広間・台所)の記述はあるが、天守についての記述は皆無。
  • また同じ中井家資料には元和5年に天守用用材伐り出しとあるが、その当時は大名の献上による切り出しが主で、幕府による用材の伐り出し*4は元和7年に鈴木長次の主導で行っている、また、慶長度天守名古屋城などとは異なり、中井家文書には元和度における用材調達の資料はない。
  • 長次が上記の用材調達を行う前に中井家が江戸に城郭とその御殿、城下町、禁裏の指図や絵図を提出している。この中には天守を描いた唯一の資料として江戸城天守の指図と建地割(2枚)があり、慶長度江戸城天守と思われる*5。これは現在も残る指図と建地割と思われる。
  • 中井家の資料や書状では元和度の工事では大工手間賃が1人当り8升から7升に削減されているが、これは慶長度に比べて木原・鈴木方の技術が向上して門・櫓・坊主部屋などが多くそちらに割り振られているからである。
  • 実際は中井方は選抜メンバーで江戸に出向いたので工数が木原・鈴木方より少なくすんだとある。これは中井方が少人数であったということであり*6、工事の多くは木原・鈴木方が行っていたと思われる。

つまり中井家が元和度天守築造を行ったという一次史料はなく、また材木の調達や当時の将軍徳川秀忠の鈴木長次への厚遇とそれに伴う長次の権勢から、中井家の史料に「秀忠のお好み」とされた元和度天守の築造*7を鈴木長次が行った可能性は高いと考えられます。

ただし、中井家がこの元和度天守に全く関わっていなかったとは言い切れません。上記から慶長度と思われる『中井家指図』、寛永度の甲良家などに伝来する各種指図は基本構造はとてもよく類似しています。そして中井家から江戸に送られた天守図面が慶長度天守のみであったことは元和度もそれらと同じ基本構造をしていた可能性が高いと言えます*8
そして慶長度は中井方単独、寛永度は木原・鈴木方単独で行われていますが、これでは技術の継承が行われていないことになります。そこで元和度では木原・鈴木方が主導で天守を築造しながらも、中井方がオブザーバーとして手伝っていたと考えてみます。逆も考えられるかもしれませんが、それは先述した力関係から城の象徴である天守は最も権勢を有した大工が担当するだろうと判断し、否定します。
この事を中井方が拡大して「中井家が天守を築造した」としたのかもしれません。

状況証拠だけなので問題は多々ありますが、本項ではこの様な結論とします。ここに書いた論も新たな資料が見出されることで、覆る可能性はあります。

一応、書きたいことは今回で書き終えたので今後は少しづつ、徳川系城郭について書いてみようかと思います。

*1:江戸大工、もしくは元の出身地である遠洲浜松大工とも言う。

*2:修正:『大坂城の歴史と構造』によると本丸御殿の設計を鈴木長次が行ったとあるので、その場合は長次の権勢が更に増していることになる。

*3:刊行されている書籍中に掲載されているものの範囲で、

*4:文書によって御殿・天守と文言が異なる。

*5:元和度の可能性も否定出来ない。

*6:同時期には大坂城の工事も行われている。

*7:ちなみに「家康のお好み」とされた慶長度天守は中井正清が築造しています。

*8:それに当てはまるのが津軽家に伝来した『江戸御殿守絵図』とも考えられます。