慶長度江戸城天守の考察(その10)…まとめ

確認すると慶長度については自分の考えをまとめていないので、簡単に書きます。

  • 天守天守台の構造は宮上茂隆氏の案が正しいと判断する。その理由は
    • 『愚子見記』の記述より慶長度江戸城天守が逓減していることから層塔型と判断できる*1
    • 慶長度天守を中井家が手掛けたのは確実である一方、元和度天守を中井家が手掛けた可能性は低い。また元和7年に中井家から江戸に送った指図覚には慶長度天守の指図がある。これが江戸城天守を描いた『中井家指図』と思われる。
    • 層塔型で破風を有する櫓は1602年にあがった加納城御三階(岐阜城天守の移築)があり、考証的にも問題はない。

 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100615/1276610411

  • 一方、周辺の状況は内藤昌氏の示した『慶長江戸図』から天守曲輪があり、その位置関係から宮上氏の天守入り口を南とする案は誤りで、北に入り口を設けていた。
    • 内藤氏は天守台に付属する小天守台に小天守があり、また姫路城と同じく隅櫓と二重多聞櫓があったとするがこれは正しくない。寛永江戸城天守・徳川大坂城と同じく小天守台は土塀のみであり、また名古屋城の例から天守・小天守台から延びる石垣はこれも土塀のみと思われる。
    • また徳川家の城郭で二重多聞櫓の例はなく、さらに隅櫓もむしろ天守の射界を邪魔するだけなので寛永江戸城本丸指図でも確認できる西櫓*2以外は全て平多聞櫓であったと思われる。

 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100608/1275957151
 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100609/1276066502

なお、『中井家指図』には既に紹介した五重櫓以外にもう一つ二重櫓の図があります。

これについては五重櫓の上二重部分の別設計案や、天守が無い頃の象徴的な櫓である富士見櫓の前身といった説がありますが、自分としては上記に挙げた天守曲輪の西櫓と考えています。もっとも図のままでは片方の破風が多聞櫓と干渉してしまうので、片方の破風の位置を変更しなければなりませんがこれはこれはちょっとしたミスと済ましても良いと思います。

*1:この時点で、後期望楼型とする他の復元案は除外される。

*2:この櫓は天守の死角となる西桔橋門を俯瞰する位置にある。