慶長度江戸城天守の考察(その4)…『中井家指図』の位置付け(元和度天守)
さて、慶長度江戸城天守が5重5階の層塔式とすると浮上するのが『中井家指図』を用いた宮上茂隆氏の復元案です。
中井家指図、宮上茂隆案
しかし『中井家指図』は内藤・三浦氏は元和度天守としています*1。
これに対して宮上氏は津軽家に伝わる『江戸御殿守絵図』を元和度天守として挙げています。なお、内藤氏はこれを誤りの多い寛永度天守の写しとしています。
『江戸御殿守絵図』(下2つも同じ)右は平側、上は妻側
展開図
下から地階・2階・4階・5階平面図
参考に寛永度天守の図面も載せます。
『江府御天守図』
『江戸御殿守絵図』と寛永度の違いを挙げると、
- 4重の唐破風だけでなく、千鳥破風にも張り出しがある。
- 5重に東照宮がある(元和度には東照宮があり、家光は天守建て替え時にその東照宮を本丸と二ノ丸の間に移している*2)。
- 通し柱の位置と数が異なる(ブログ主の観察より)。
- 柱間が7尺でなく、京間(6尺5寸)。
- 入り口は南でなく北にある。
宮上氏はこの張り出しを小田原城天守や沼田城天守、松本城天守の当初設計と共通して見られる三河大工の特徴とし、この天守の作事奉行を三河譜代大工の鈴木長次としています。
また柱間と入り口についてはこの天守が仙台城に移築される計画であったとして、その時の縮小・移築のためとしています。その時に作成された図面が焼失した弘前城天守の再建検討時に、仙台藩から弘前藩へ流れたというのが宮上氏の考えです。
ただしこの図面については宮上氏以前に藤岡通夫氏が弘前城天守の計画案とした以外は殆ど検討がされていません。というのも図の来歴が資料として無く、その為に他の研究者はこの図面について殆どノーコメントの状態であるようです。
ただ、私論としてはここまで相違のある図面を「寛永度天守の誤りの多い図面」とする内藤氏の考えには疑問を多くします。
また宮上氏の案に従えば慶長・元和・寛永度3つの江戸城天守は僅かな寸法や工法の違い、装飾である破風が異なる以外は建造物としての基本的構造は殆ど同じである点も実に興味深いです。