慶長度江戸城天守の考察(その3)…いわゆる前期層塔式というものについて

天守・櫓の形式を説明する本では前期望楼式(例:犬山城)、後期望楼式(例:姫路城)、層塔式(例:宇和島城)で分類されています。しかし最近は用いられなくなりましたが、以前は層塔式も前期と後期に分けて論じられていた時代がありました。
内藤昌氏がよく提唱していた前期層塔式は1・2階が同じ平面規模であるのが望楼式への名残としています。しかしこの説は初期の丹波亀山城天守(慶長15年頃)が逓減しているので否定されています*1

他に城戸久氏が水戸城名古屋城本丸隅櫓の様に、階の間に屋根がない形態も含めて論じた資料があります。
11 水戸城天守式城櫓建築の系統について国立情報学研究所
城戸氏は金閣の構造を念頭に入れているようですが、実は名古屋城本丸隅櫓よりも前に、しかも3階まで同一の平面規模であった天守の例が駿府城天守としてあります。

私はこれらの理由をより即物的な目的ではないかと思います。前回、示した『愚子見記』では「1・2階を同一規模にしたので、最上階が大きくなった」とあります。つまり上の階を大きくするために重層としたと考えます。

層塔式は規則正しく逓減するために、望楼式に比べて面白みに欠けます。その為に飾りの破風を付けるといった事が行われますが、それとは別に平面規模が小さくて階層を高くすると先細りして見えると言う問題もあります。その点、望楼式は入母屋破風で威容を高めたり、内部階を多くしたり、そこから新たな構造物を載せることで連続した流れを断ち切ることもできますが、単純な構造である層塔式ではそうもいきません。

その為、下の階を同じ大きさで重ねることで櫓の高さと上の階を大きくし、なるべく小さい初重規模で威厳を高めようとしたと思われます。そして、城下からはそうした天守の下の段を見ることは先ずありません。駿府城天守は大型の天守台の中央に天守があり、周りを隅櫓や多聞櫓で囲っているので下からは3階下端までは見ることはできません。名古屋城天守も周りを曲輪に囲まれ、一番天守に近い北側は築城当時は湿地でした。水戸城は塀に囲われた曲輪の真ん中にあったので、これは城下から下端を見ることはできません。

駿府城の本丸部分

水戸城御三階

天守の存在理由の1つとして視覚的に相手を威圧するというのがあります。現在の私達は天守を直ぐ間近や、鳥瞰図として見ることができますが、当時の一般層や敵対勢力は城下から見上げる形でしか天守を望めなかったという事を忘れてはいけないと思います。

*1:なお、この天守今治城天守(慶長9〜13)の移築説もあります