慶長度江戸城天守の考察(その8)…あまりアテにはできない絵図(江戸城編)

最後に本題の江戸城となります。もっとも江戸城天守は慶長・元和・寛永の3度にわたり上げられていますが、残念ながら慶長度とされている絵はないのが現状です。その為、ここに挙げれるのは元和度か寛永度と評価されているものです。

  • どの時代の天守か確定している絵図(年号は制作年)
    • 『江戸天下祭図屏風』(1656年、1660年、1705年〜)

      

    • 武州州学十二景図巻』(狩野尚信画、1648年)

      
双方とも寛永度とされていますが、描写の正確さには差があります。前者は寛永天守と同一の色や破風配置ですが、後者は破風が1重分加えられています。

  • どの時代の天守か確定していないもの
    • 『江戸図屏風』

      

    • 『江戸名所図屏風』

      

    • 寛永図(武州豊島郡江戸庄図)』(1632年)

      (a) (b)
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      (c)東京大学附属図書館(写本)
      (d)時代統合情報システム(写本)
      (e)早稲田大学(1653年版の写本)
      (f)早稲田大学((a)と同じ)
      (g)早稲田大学((a)と同じ)
      (g)早稲田大学(1666年版)
この3種の絵図は建築史では元和度、歴史家からは寛永天守の図とされてきました。特に内藤昌氏は『江戸名所図屏風』『寛永図(a)』を根拠として『中井家指図』を元和度と比定しています。
しかし、両者はよく見ると1重目の階数や4重目の唐破風の描写が異なっており、また『寛永図』のみを見てもそれぞれ様々な形状や彩色の天守があることが判ります*1。なお、鈴木理生氏によると『寛永図』は27種類もあるとしており、その中の1例のみを選択するのは問題があると言えます。

それにしても何故、絵図に描かれる天守はこれ程までに実際と異なるのでしょう。それは当時の支配者である徳川家に対する遠慮と考えることができます。天守とは大名による支配の象徴であり、それの似姿を描くということはその天守に象徴される支配の独占を侵害する行為と受け取られたのかもしれません。
そうでなければあれほど街並みや人々の風俗を細かく描いている各種図屏風において、天守が抽象的に書かれている理由が説明できません。
そしてその中で、唯一『江戸天下祭図屏風』が実際の天守を描くことができたのはその注文主が紀州徳川家、ひょっとしたら8代将軍徳川吉宗その人であったとされていることから説明できます*2
つまりあの当時、天下人の天守を正確に描くことができたのは天下人自身、もしくはその縁者しかできなかったのです*3

そういった点から絵図を用いて天守を復元する際は、その来歴や背景を十分考慮しなければなりません。特に天下人の城は正しく描かれているものはむしろ稀少という前提が必要でしょう。
よって、この点においても内藤昌氏の『中井家指図』を元和度とする案は再考する必要があります。

*1: (a)が多いのが本図が版木によって大量生産されたため

*2:特集/江戸天下祭図屏風国立情報学研究所より)

*3:これは大名の注文とされる『洛中洛外図屏風(池田本)』や『江戸図屏風』からも想起されます