慶長度江戸城天守の考察(その7)…あまりアテにはできない絵図(二条・伏見城編)

次は最も多く残っている二条城・伏見城天守についてです。この時代の京は『洛中洛外図屏風』として多くの作品が残されており右隻に方広寺、左隻に二条城という豊臣と徳川の権力の象徴を並べることが特徴でした。また右隻の端には強引に伏見城(ただしこれは関ヶ原合戦以後に再建した徳川伏見城ですが)を入れている作品もあります。
それなりに数があるので流派や作者で纏めてみました。なお、二条城は慶長度の家康創建時のみとし、2枚写真があるときは左が二条城で右が伏見城、1枚の時は二条城です。

狩野派

  • 勝興寺本(狩野孝信画)


それ以外の流派

  • 船木本

  • 高津本

  • 池田本

  • 個人蔵(池田本系列)

狩野派は大量生産に応えるため粉本(絵手本)による規格化が進んでいる事がよく知られていますが、これは同じ屏風に描かれている二条城と伏見城の構成が全く同一であることからも伺えます。例外的に差異がある出光美術館本も狩野派本流ではなく、その流れをくむ町絵師の作品と評価されています。
一方、町田本は双方の差異もありますが、6重となっています。これについては城戸久氏はこの天守後に移築された淀城天守の形から、複雑な形状を誤認したとしています。しかし、これについては同じ池田本系列の個人蔵本が5重としているので、描画に際しての決まりごとに縛られていた結果と私は考えます。

船木本はどちらかというと二条城というよりは聚楽第図屏風聚楽第に似ている風に感じます。この辺りは図屏風全体から見える作者のシニカルさが透けて見えてきます。高津本はこれは完全に作者の無手勝流としか言いようがありません。

ちなみに淀城天守より宮上茂隆氏が再現した慶長度二条城天守はこのようになります。

これと今までの絵を比較しても出光本や池田本の唐破風を除いて、この復元図に至るのはなかなか難しいかと思います。とくに入母屋屋根を互い違いに組み上げる描き方は実際にそうであったというより、そういう描き方に縛られたものと見るべきであり、それ以外にも個々の違いは一目瞭然です。つまりここでも絵図から実際の姿を考察するのは難しいということです(ただし、寛永期の『洛中洛外図』の二条城天守は層塔式として描かれているので、望楼式か層塔式かの区別は付けれるかもしれません)。

なお、内藤昌氏は『洛中洛外図屏風』から二条城・伏見城ともに廻り縁がある後期望楼式とし、慶長度江戸城天守も同じとしています。
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100614
後期望楼式はともかく、二条城の廻縁は上の絵を見ても無い方が多いので大いに疑問符がつきます。更には根拠として挙げている勝興寺本二条城天守、薮本家本(出光本)伏見城天守は同じ図屏風にそれぞれ全く同じ構図の二条・伏見天守が描かれているのに、異なる図屏風を挙げています。
ちなみに勝興寺本の伏見城天守、出光本の二条城天守には廻縁がありません。もしもこれを意識的に行ったとしたならば、内藤氏の資料選択には少なからず首をかしげざるを得なくなります。