慶長度江戸城天守の考察(その6)…あまりアテにはできない絵図(大坂城編)

『中井家指図』を元和度とし、慶長度天守を望楼式とした内藤昌氏ですが、彼がその根拠としたのは『洛中洛外図』に描かれた伏見城や二条城、『江戸名所図屏風』や『武州豊島郡江戸庄図』といった絵画資料を主としています。
しかし良く『決定的』とも言われる絵画資料は意外と実際の復元には役立たずの場合が多かったりします。しばらくはその辺を解説しようかと思います。

最初は豊臣大坂城です。

大坂夏の陣図屏風』

大坂冬の陣図屏風』

『大坂図屏風』

『京・大坂図屏風』

大坂夏の陣図屏風』と他3つの天守の破風や1重目の屋根にある貼り出しが大きく異なっているのが一目瞭然です。また『大坂冬の陣図屏風』と『大坂図屏風』『京・大坂図屏風』でも2重目に出窓付きの軒唐破風の有無という相違点があります。
また最近、オーストリアで発見された『大坂図屏風』天守の形状は『大坂冬の陣図屏風』と良く似ていますが、5重目以外の壁面が白色という大きな違いがあります。
大坂城の復元に最も多く用いられる『夏の陣図屏風』は経緯から考えて城が焼失した後の作品なので、想像で描いているかもしれません。しかし他の図屏風も装飾の有無や細かな壁面の配色の違いを除いても、先に書いたようにそれぞれ違いを見ることができます。

それでも『夏の陣図屏風』以外は基本的な入母屋屋根の配置が同じという特徴があります。しかしこれは実際の天守がそうであったのではなく、絵師の天守の描き方の定型であった可能性があるのです。
それについてはまた今度ということで…。