慶長度江戸城天守の考察(その1)…天守の重・階数について

先ず天守の外見は何重で、内部は何階であるかを考察します。これまでの史料・復元案で出されたのは

史料

  • 『慶長見聞集』

然レバ家康公興サセラルゝ江城ノ殿守ハ五重、鉛瓦ニテ葺キ給ウ。富士山ニ並ビ、雪ノ嶺ニ聳エ、夏モ雪カト見エテ面白シ。

  • 『毛利三代実録考証』

   益田頼母什書
 其表之御天主七重ニ被仰付之由、定而見事にて候すると存候、よろつ御普請之趣、被及見候て可然候、

  • 『日本西教史』

……其居城ハ、九重ノ層楼ヲ飾ルニ、黄金ノ薄板ヲ以テシ、其頂ヲ尖形ニス、……

  • 『愚子見記』

 一、江戸御殿守 七尺間、十八間・十六間 物見、七間五尺・五間五尺
   高石ヨリ棟迄二十二間半、是権現様御好也
 一、尾張御殿守 七尺間、十七間・十五間 物見、八間・六間
   下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故、物見大キ也
 一、大坂御殿守 七尺間、十七間・十五間 物見、四間五尺・二間五尺
 一、二条御天守 七尺間、十間・九間 物見、四間・三間

 物見トハ五重目也

  • 『中井家所蔵指図』『京大所蔵指図』

復元案

  • 内藤案

 5重6階地階1階の合計7階…5重は『慶長見聞集』、7階は『毛利三代実録考証』よりまた『洛中洛外図』に描かれている二条城天守伏見城天守などからも参考にしている。http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100614/1276526318

  • 宮上案

 5重5階地階1階の合計6階…5重5階は『中井家所蔵指図』『京大所蔵指図』よりhttp://d.hatena.ne.jp/tateita/20100615/1276610411

  • 大竹案

 5重階数は不明だが地階1階がある…『慶長見聞集』より

  • 三浦案

 5重5階…名古屋城天守より

考察
この様に外見については5重で統一されている一方、内部の階数については様々な論があります。しかし、私としては5重5階説を支持します

その理由として私は『愚子見記』の上記内容に注目しました。
先ず上段に書かれている内容に注目してみると天守はそれぞれ、

  1. 慶長度江戸城天守(1606年築)
  2. 名古屋城天守(1612年築)
  3. 徳川大坂城天守(1626年築)
  4. 寛永度二条城天守(1624年築)

となっており、江戸城から大坂城までの徳川氏(そして中井家)による天守を記したものであることが解ります。ここで注目されるのがこの間にある筈の駿府城に触れていない点です(徳川伏見城・慶長度二条城・元和度江戸城天守に触れていないのは中井家の主導で無かったことが考えられます)。
ここで下段の内容に注目します。この記述が書かれた項は上段とは少し離れている城郭の各部位を解説した中にあるものですが、同時期に書かれてもので内容は繋がっていると考えてよいでしょう。
つまり上段に書かれた天守は内部階が5階の天守のみと考察できます。
その裏付けとして、江戸城以外の上段に書かれている天守は全て5重5階の天守であることが名古屋城は現物が戦前まで残っていたこと、大坂城や二条城も指図から窺い知ることができます。また『当代記』『武徳編年集成』から2度目の駿府城天守が7階であることもそれを補強しています。

これらの点から私は江戸城天守が5重5階であると結論します。

それでは他の7重・9重の史料はどうなるのか。
これらの記述について私はあくまで外見からの観察によるものとし、江戸城築城の手伝いをしていた益田頼母は本丸辺りまで立ち入れたでしょうから5重天守に2重の天守台を足してた外見から7重と、そして城下からの観察しかできなかったであろう宣教師(もしくは宣教師に情報を伝えた下級武士や庶民)は更に本丸・二ノ丸の2重(この当時、三ノ丸は大名屋敷地なので本城には含まれない)を加えて9重と報告したことが考えられます。
後者についてはかなり苦しいと思われるかもしれませんが案外、秀吉書状にある北ノ庄城天守の9重や会津若松城天守の7重もそうしたものなのかもしれません。

追記
また7重・9重は「数多く重なっている」との意味もあります。これに従えば、『毛利家三代実録考証』『日本西教史』のそれはあくまで比喩表現とも考えられます。