慶長度江戸城天守の復元(宮上茂隆版)

次に宮上茂隆氏の復元概要を『徳川家康創建江戸城天守の復元』 建築学会大会講演梗概集 1990年国立情報学研究所より)と、『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』を用いて説明します。

江戸城―四海をしろしめす天下の府城 (歴史群像 名城シリーズ 7)

江戸城―四海をしろしめす天下の府城 (歴史群像 名城シリーズ 7)

  • 『中井家指図』を慶長度江戸天守と比定。これは『中井家文書』より慶長度天守は本丸御殿も含めて中井正清が一手に手掛けており、また元和度天守は徳川譜代の鈴木長次が行ったとしている*1。その為、天守は5重5階(地階を含めて6階)の層塔式としている。
  • 『中井家指図』『京大蔵図』より屋根勾配や最上階屋根のみ出し桁(梁を差し出し、出桁で軒の垂木を支える建築様式)でない点を、中井家と木原・鈴木家間の工法の違いとし、『愚子見記』との照らし合わせより最上階の入縁側柱間を6尺として(他の柱間は7尺)いる。これは中井家に残る寛永度二条城天守や小浜城天守の指図にも見られる中井家の特徴としている。
  • また5重とした『慶長見聞集』などの記述から鉛瓦で、白漆喰壁の外見であったとする。
  • また徳川大坂城天守と同じ様に四階目桁行方向の唐破風は向唐破風としている。また他の千鳥破風の配置や、天守自体の寸法が僅かに小さいだけという点から徳川大坂城天守を慶長度江戸天守の縮小移築としている。なお、向唐破風の使用は寛永度二条城天守にも見られ、これも中井家の特徴としている。
  • 天守台は『当代記』の記述を20間四方、高さ8間の自然石による石垣の上に天守地階に当たる高さ2間、天守初階と同じ範囲の切石による2重構造の天守台としている。これは駿府城天守と同じ構造としているが、間の隙間が小さいので江戸城は塀のみがあったとしている。天守曲輪については特に言及は無し。


慶長度江戸城天守南面

同東面(双方とも『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』より)

*1:なお宮上氏は元和度天守津軽家に伝来した『江戸御殿守絵図』と比定している。ちなみに内藤氏はこの史料を誤写が多い寛永天守の史料と評価している。