慶長度江戸城天守の考察(その9)…層塔式のハードル
内藤昌氏案の慶長度江戸城天守が高欄付きの望楼式であるという論拠は
- 高欄については二条城・伏見城は意識的に高欄のある絵図を選択した。駿府城は物見の段という名称のみで、2階の様に高欄があるとは資料には記述されていない。
- 形式については二条城(1602年)・伏見城(1601年)は望楼式の可能性は高いが、駿府城(1608年)は異論がある(かつては望楼式案一色だったが、最近は層塔式案が多く提出されている*1)。慶長度江戸城天守は1607年完成なので前2者との間にはかなりの年月差がある。ちなみに層塔式である名古屋城は1612年に完成。
以上より私は内藤氏の案は再考する必要があると結論づけました。
それにしても慶長度天守の形式で宮上茂隆氏以外が望楼式としているのは何故か。
先ず、この当時は層塔式の黎明期で望楼式・層塔式の両者が建てられていた時代であること。次に名古屋城天守が望楼式の名残を残していると認識されていること。ただし後者については私は否定をしています。
それでは前者についてはどうでしょうか?関ヶ原以降の天下普請における城郭を見てみると
「*」が付いているのは天守が完成した年、それ以外は築城に着手した年。1602年から7年が空いているのはその間に江戸城の大修築が行われているから。篠山城・彦根城の天守以外の櫓はより後年の可能性アリ
此の様に層塔式ができ始めたばかりという、非常に微妙と言える時期に江戸城天守が完成していることが判ります。逆に言えばでき始めだからこそ、層塔式という新しい形式を家康は採用することで層塔式だからこそできる巨大な天守、そして金属瓦・金鯱・白漆喰といったパーツを用いることで、人心に時代と支配者の移り変わりを認識させようとしたのかもしれません。
そして想像を逞しくすれば家康は先ず加納城3重櫓(旧材利用で望楼式から層塔式に改変)で層塔式の検討を行ない、次に藤堂高虎に今治城天守を造らせることで新規に5重天守の検討を行なった上で、江戸城天守の建造を行ったと考えることができます。
藤堂高虎が後に今治城天守を丹波亀山城に献上したのもそういう意味があったのかもしれません。つまり今治城天守は元々、幕府のための天守だったというわけです。
さて、「層塔式の最初期に江戸城天守のような完成した破風配置や構造はおかしい」と考える人もいるかも知れません。例えば、三浦正幸氏は初期の層塔式は破風がない(丹波亀山城天守や津山城天守)、柱位置が階によって一致しない(名古屋城天守)としています。
しかしこの考えは「物事は段階的に改善されてゆく」という考えに囚われ過ぎていると思います。世の中には安土城の様な突然変異的なものもあります。破風配置などはインスピレーションに多くを占めるものですから、最初から完成された配置になってもおかしくはありません。また柱位置も逓減の度合いや、柱間が奇数か偶数かでも異なります。
例えば、天守が先細りにならないように逓減の度合いを少なめにしたり、柱間が奇数の時には柱位置が一致しないことがあります。津山城天守は前者の、名古屋城天守は後者*2の例と言えます。
勿論、全く進歩していないとは言いませんが、そういったそれぞれの建築状況に対応した結果という考えのほうが自分としては自然かと思います。
また三浦氏はこれとは別に「層塔式は綺麗な天守台の上にないと、構造が歪むので天守台は正しい方形でなければならない」とあります。これについては慶長度江戸城天守は時期的には正しい方形の天守台を築くのは難しいかもしれません。
しかしこの点についてはこちらの記述で解決できます。つまり高さ8間の自然石部分の天守台で歪みが生じても、2段目の切石部分で修正することができるのです。
その意味でもこの2段目の石垣に、規格化しているが故に正しい形に組み易い切石を用いているのは「正しい形の天守台を組む必要がある=層塔式の天守」という一つの証左になるかと私は考えます。