3天下人にとっての天守

天守は戦術的な意義も多く有していますが、その本質は相手を心理的に圧倒するという戦略・政略的な意図を主眼としています。その対象は様々ですが、特に私的には天守に登らせるなど個人間の優位に立つものとして、そして公的には不特定多数に外からその威容を見せることで、彼らに上の存在を意識させることが主なポイントと言えます。
そして3天下人である織田信長豊臣秀吉徳川家康はその点についてそれぞれ、異なるアプローチを行っていました。

先ず、最初に大規模な天守を創出した織田信長です。
彼の場合は発案者だけあって徹底的に耳目を集める道具として、公的にも私的にも天守を活用しました。前者は安土城という特殊な形状の天守を高い山の上に上げることや、城中を灯りでライトアップすることで、後者は度々に客を天守に案内することで自身の権威と天守を同一視させるようにしていたと言えます。
ただし彼の場合は実際面を少なからず無視するところが多かったようです。岐阜城もそうですがわざわざ山の上に高い櫓を建て、その中にわざわざ住むというのは最早、個人的趣味としか言えません(だからこそ天守なんてものを思い立ったと言えますが)。50前で亡くなったから良いものの、年をとったらどうするつもりだったんでしょう。
「馬鹿と煙は高い所に登る」といいますが、信長はある意味そういうがあったといえ無くはないかと思います*1。そしてその強烈な個性故に信長は歴史からの退場を余儀なくされたのかもしれません。

次に豊臣秀吉です。
彼の場合は基本的には信長の後継者という意識から、彼の模倣というべき点が多いと言えます。ただし彼の場合はその出自の低さと権力基盤のアヤフヤさから、よりパフォーマンス的な行為を行う必要がありました。それが「普請狂い」と言われた大量築城でしょう。彼は数多くの城(天守)をまるで顕彰碑の様に建て、更には各地の大名にも豊臣氏羽柴氏の氏を与えたと同じ様に金箔瓦や天守を有する城郭を建てさせることで、自己の権威と存在を全国に浸透させていこうとしたのでしょう。
秀吉は信長の真似をしていたので、天守の私的な面は後退しています。天守に住まなくなったのもその1つと言えますが、まだ客を天守に招くといった事は行ったり、遺言に家康や利家に天守に登ることを許すなど私的な面は残していました。
ただし、あまりにも多くの城(天守)が出来た為に、全体の天守ブームの中に秀吉の個々の天守は埋没してしまった感は拭えません。その辺の秀吉個人以外の希釈が彼の死後の豊臣政権の空中分解を招いたとも考えられます。

最後に徳川家康ですが、彼は完全に天守を道具かつ外的効果のみを念頭に置いていました。
層塔型による巨大な天守、金属瓦、金鯱、白漆喰壁は全て外から見たイメージを考慮したものですし、それに対して内部は倉庫と変わりないもので、天守に客を案内するということも全く行われませんでした。家康はケチで有名ですから、前2者と異なりあまり天守というものに愛着を感じていたとは思えません。ただし、その効果は認めていたが故に感情でなく論理で突き詰めた結果が、「外から見て凄いと思う天守」なのでしょう。
もっとも家康はやっぱりケチだったようで、城下から見えない下の階を逓減させないことで平面規模を縮小させつつも、上の高さや規模を大きく見せようとしていたのは合理主義の彼らしいといえます。
秀吉と同じく外的を重視した家康ですが、彼の場合は当初は豊臣家の天守を埋没させる為に、多くの大名にそれに匹敵する天守を建てさせていましたが、後に天守の独占を行うことで徳川家の権威を高めようとしています。これは家康が秀吉より遥かに堅固な権威と組織を構築できたからでしょう。また、家康も多くの天守を建てていますが、規模や金属瓦の使用率などで頂点である江戸城に明確な差を付けており*2江戸城を頂点とした順列に変化はありませんでした。

この様に信長の公私の権威誇示として勃興した天守は、途中で秀吉のパフォーマンスによる展開で全国に広まり、最後に家康の合理主義で権力の象徴として確立し、それが故にその建築を制限され衰退したと言えます。
明暦の大火で焼失した江戸城天守は「象徴としての天守は不要」として廃されます。すでに当時の江戸幕府天守という「箱物」を必要としない程、安定していたと言えるでしょう。その意味でも天守とは不安定な時代が故の徒花と言えるのかもしれません。

*1:全てにおいてそうであったという気は毛頭ありません

*2:創建当初の名古屋城天守は最上部のみが銅瓦葺であった