層塔型の系譜(その1)…これまでの通説

日本の城郭に設けられている櫓(天守も含む)の形式は望楼型と層塔型の2種に大別されるのは良く知られています。

望楼型と層塔型の比較図(左:望楼型、右:層塔型)

これらの内、層塔型については望楼型より後に出現しているので、その初例が何であるかについて色々と研究がなされています。今回は現在の定説になっている丹波亀山城(または今治城天守について解説をします。

丹波亀山城は慶長15年(1610年)の2月から8月にかけて大修築が行われて現在の規模になった城郭です。この時上げられた天守は破風のない五重天守で、ただ五重目に欄干と入母屋破風と軒唐破風があるだけのシンプルな設計でした。
この天守については城戸久氏と三浦正幸氏による紹介と復元案があります。
丹波亀山城天守考(城戸久)
丹波亀山城天守の復元(三浦正幸)
(以上、国立情報学研究所より)

この天守藤堂高虎が上げたもので、藤堂家の記録によれば今治城天守(慶長7年から9年)の移築としています。上記では両者は今治城天守の形式には触れていませんが、三浦氏は別書にてほぼ同型の天守今治城の本丸中央に直接建っていたとしています(『【決定版】図説・天守のすべて』より)。

また、城戸氏以前には藤岡通夫氏が層塔型について考察をしていますが、資料の関係から上記よりも更に後退してその始まりを慶長14〜15年頃としています。なお、藤岡氏は層塔型についてあまりにも杓子定規に規定しているフシが見られます。
層塔式天守の一考察
国立情報学研究所より)

これまでの通説では丹波亀山城今治城のどちらかが層塔型天守の初例とし、双方ともを手掛けた藤堂高虎が層塔型の考案者とされています。しかしそれに疑問を投げかける資料があります。それについては次回に説明します。