江戸城天守台の石

流石にネタ切れなので、おそらくこれが江戸城天守についての最後の記事になると思います(寛永度については既に十分な資料があるので書きません)。

江戸城天守は3度に渡り上げられましたが、天守台は4度築かれています。

  • 慶長度天守
    • 『当代記』の記述より、20間四方高さ10間の自然石(打込ハギ)に天守地階となる16×18間(7尺間)四方、高さ2間の切石(切込ハギ)の2段構造になっていたと思われる。これは当時の石垣技術では、高い石垣の上に層塔型の天守を上げるのに必要な、歪みのない天守台を造れなかったためと思われる。
    • 石は『慶長見聞集』より白い摂津の御影石を用いたとされる。これは御影石の語源ともなった神戸の「御影」の北にある六甲山地から採取された石材と思われる。白色の壁面(白漆喰)・瓦(鉛瓦)に合わせたものと考えられる。
  • 元和度天守
    • 『自得公済美録』『江戸御殿守絵図』より、16×18間(7尺間)四方、高さ7間の天守に直接結合する形の天守台と考えられる。これは石垣技術の向上により可能となったもので、それは当時においてもっとも石垣技術に長じた加藤家が手掛けた点からも想像出来る。またこれ以降は全て切込ハギと思われる。
    • 石は上記の資料より伊豆石と思われ、壁面の色から白色の凝灰岩系と思われる。ただしこの石は御影石より青みがかかっており、これは屋根の銅瓦とも合わせたからと考えられる。
  • 寛永天守
    • 甲良家の絵図などより、元和度と同じ16×18間(7尺間)四方、高さ7間の天守に直接結合する形の天守台。
    • 材質は『江戸城-その全容と歴史』より黒色の安山岩系の伊豆石とされる。これは壁面が黒色の銅板張になったためと思われる。
  • 現存天守
    • 16×18間(7尺間)四方、高さ6間の天守に直接結合する形の天守台。ただし天守は再建されず。
    • 材質は白い小豆島・犬島の御影石、ただし内側には寛永度の伊豆石も残る。再建計画時には寛永度のと同じ天守を上げるとされているので、石垣と壁面の色が一致しない。高さを下げたことも併せて、天守台築造時には既に天守を再建する気は希薄だったと思われる。

天守台の色1つ取っても色々と気を配っていることが判ります。

江戸城天守の東照宮

東照宮といえば徳川家康を祀る御宮として各地に造営されましたが、江戸城内では紅葉山の東照宮*1が有名ですが、その他にも二ノ丸東照宮がありました。しかも2つもあり、1つは本丸と二ノ丸の間に、もう1つは二ノ丸御殿の一部としてあったようです。

ここで注目されるのは前者の東照宮で、これは元々は元和度江戸城天守にあった東照社(宮号はこれより後年)を寛永天守に建て直す際に遷したものとしています。以下にその資料をあげます。

東京市史稿 皇城編』

蠹得一得
 二丸御宮今亡。 元和八年壬生戌於天守、御宮御造立(後略)
守囊
 大猷院様(徳川家光)御代、権現様(徳川家康)至極御信仰被遊びニ付、台徳院様(徳川秀忠)ニ者御謹ニ而、元和八年御本丸御天守下ニ権現様御宮御造営被遊、毎月御参詣、日々御膳等献備、

問題なのは「天守下」がどこを指すかという点で、単純に考えると天守下というと天守台かもしくは天守の周辺と考えることもできます。しかし当時の神社へ対する信仰、しかも家康への信仰心が高い家光が造立したのですから、人がその上に立つ天守地階や見下ろしたり影になる位置にある天守の側に置くとは考えにくい点があります*2

そこで、上下の関係で「上」を天守の屋根の上とし「下」を天守の内部として、天守の最上階に東照宮があったと考えてみます。同じような例は姫路城天守の最上階にある長壁神社があるので、ありえない話ではないと思います。
ここで注目するべきは既に何度かあげた津軽家の『江戸御殿守絵図』です。この絵図には最上階(5階)に「上々段 東照宮御社アリ」とあるので、先の論に当てはめればここに描かれている天守が元和度である可能性は高いと言えます。

*1:元々あった日吉大社が城郭の拡張に伴って庶民が参拝できなくなったので、移転された跡に建った。

*2:後に移転した二ノ丸御殿も天守からは見えにくい位置にありました。

三浦正幸の新たな慶長度天守復元案

数日前本屋に出かけた所、こんな本があるのが目に付きました。

東京人 2010年 09月号 [雑誌]

東京人 2010年 09月号 [雑誌]

その中に三浦正幸氏の江戸城天守についての説明があり、特に慶長度でこれまでとは異なる復元案をだしていたので紹介します。

  • これまでの名古屋城を参考にした復元案でなく、宮上茂隆氏が元和度と比定した旧津軽家の『江戸御殿守絵図』を慶長度と紹介する。
  • その絵図から判断すると慶長度天守は人が窓を覗くには高い場所にあり、破風の下にある出窓の部分からしか外を望めない欠陥建築である。
  • 元和度はこれまでと同じ『中井家指図』を基にし、より洗練されたものになっている。


三浦氏の以前の復元案

『江戸御殿守絵図』

私個人としてはこれまで述べた様に中井家は元和度天守築造を主導していないので、かの家にあるのは慶長度天守の図面と考えています。よって、この案には最初から疑問符がつきます。更には『江戸御殿守絵図』(以下、『絵図』)を慶長度とするのは様々な問題があります。

  • 『愚子見記』には慶長度の棟高22間半とあるが、『絵図』では23間4尺となっている。
  • 『当代記』によると慶長度の石垣は20間四方で高さは10間とあるが、『絵図』は7間となっている。
  • 『絵図』の最上階に東照宮がある(慶長度が建てられたときは当然、家康は存命中)。

これらの点から三浦氏の考えには問題が多々あると言わざるをえません。

ちなみに窓をの位置を欠陥とする意見については私には建築学の心得が乏しいので、正しい判断ができません。しかし其の様な初歩的ミスをするとは考えにくいと思います。

望楼型と層塔型の建築期間

以前、
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100621/1277122137
こちらで層塔型は望楼型よりシンプルな形状と書きましたが、今回はそれを建設期間という点で見てみます。

  • 望楼型
    • 安土城普請(『よみがえる真説安土城』)
      • 天正5年8月24日…天守柱立て
      • 天正5年11月3日…屋根葺き合わせ完了
      • 天正6年1月1日…信長の御殿御座所を信長の大名・部将見学
      • 天正7年1月…天守完成
      • 天守建築期間…1年4ヶ月余
    • 大坂城普請(『信長・秀吉・家康の城』)
      • 天正11年8月5日…近江の諸職人宛、諸役免除の秀吉条々*1
      • 天正11年8月28日…石運びの定書
      • 天正11年9月1日…大坂城普請開始時に地鎮祭の様な儀式が行われる(『兼見卿記』)
      • 天正11年11月…天守台完成(『柴田合戦記』同年同月吉日の奥書)
      • 天正12年8月8日…秀吉、本丸御殿に移徙(『宇野主水日記』)
      • 天正13年4月…天守完成(同上)
      • 天守建築期間…1年5ヶ月余
    • 姫路城普請(『姫路城の建築と構造』)
      • 慶長13年9月23日…天守作事開始
      • 慶長14年10月…完工
      • 天守建築期間…1年余
  • 層塔型
    • 駿府城普請(『大日本史料』)
      • 慶長11年6月4日…起工延期
      • 慶長12年2月17日…起工
      • 慶長12年5月…天守修築開始
      • 慶長12年7月3日…家康、本丸御殿に移徙
      • 慶長12年8月15日…城郭概略完成
      • 天守建築期間(慶長1期、12月に全焼)…3ヶ月半余
      • 慶長13年1月…再建工事開始
      • 慶長13年3月11日…家康、本丸御殿に移徙
      • 慶長13年8月20日天守上棟式(完成)
      • 天守建築期間(慶長2期)…8ヶ月余か(本丸御殿の後に着工した場合は5ヶ月余)
    • 名古屋城普請(『よみがえる名古屋城』・『中井家大工支配の研究』)
      • 慶長15年8月27日…天守台完成
      • 慶長17年6〜8月…天守作事開始
      • 慶長17年8月23日前後…天守用金物入札
      • 慶長17年11月21日…上棟式
      • 慶長17年12月…天守完成
      • 天守建築期間…5〜7ヶ月余
    • 慶長度江戸城普請(『大日本史料』『中井家文書』『江戸城 名城シリーズ』)
      • 慶長12年閏4月1日…天守台増築開始
      • 慶長12年9月11日…天守の概要完成(『益田頼母什書』)
      • 慶長12年…天守完成
      • 天守建築期間…9ヶ月以内(『益田頼母什書』や石垣工事も勘案して5ヶ月余りか)

このように望楼型がどれも1年以上を要しているのに対し、層塔型は長くても9ヶ月程(私の考えでは大体5ヶ月余りか)しかかかっていません。これは江戸城工事の頃から中井正清が層塔型に合った躯体(骨組み等の構造部分)工事と造作(内装関係)工事の分離や、各重毎に組分けして作業を行わせるといった作業の合理化が大きく影響していると言えるでしょう。特に、後者は各重が独立している層塔型ならではと言えます*2

*1:7日付け浅野長吉添状によると大坂城普請への参加を条件とする。

*2:望楼型は各重と接する入母屋の影響で分担作業は難しい。

慶長度江戸城天守の考察(その10)…まとめ

確認すると慶長度については自分の考えをまとめていないので、簡単に書きます。

  • 天守天守台の構造は宮上茂隆氏の案が正しいと判断する。その理由は
    • 『愚子見記』の記述より慶長度江戸城天守が逓減していることから層塔型と判断できる*1
    • 慶長度天守を中井家が手掛けたのは確実である一方、元和度天守を中井家が手掛けた可能性は低い。また元和7年に中井家から江戸に送った指図覚には慶長度天守の指図がある。これが江戸城天守を描いた『中井家指図』と思われる。
    • 層塔型で破風を有する櫓は1602年にあがった加納城御三階(岐阜城天守の移築)があり、考証的にも問題はない。

 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100615/1276610411

  • 一方、周辺の状況は内藤昌氏の示した『慶長江戸図』から天守曲輪があり、その位置関係から宮上氏の天守入り口を南とする案は誤りで、北に入り口を設けていた。
    • 内藤氏は天守台に付属する小天守台に小天守があり、また姫路城と同じく隅櫓と二重多聞櫓があったとするがこれは正しくない。寛永江戸城天守・徳川大坂城と同じく小天守台は土塀のみであり、また名古屋城の例から天守・小天守台から延びる石垣はこれも土塀のみと思われる。
    • また徳川家の城郭で二重多聞櫓の例はなく、さらに隅櫓もむしろ天守の射界を邪魔するだけなので寛永江戸城本丸指図でも確認できる西櫓*2以外は全て平多聞櫓であったと思われる。

 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100608/1275957151
 http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100609/1276066502

なお、『中井家指図』には既に紹介した五重櫓以外にもう一つ二重櫓の図があります。

これについては五重櫓の上二重部分の別設計案や、天守が無い頃の象徴的な櫓である富士見櫓の前身といった説がありますが、自分としては上記に挙げた天守曲輪の西櫓と考えています。もっとも図のままでは片方の破風が多聞櫓と干渉してしまうので、片方の破風の位置を変更しなければなりませんがこれはこれはちょっとしたミスと済ましても良いと思います。

*1:この時点で、後期望楼型とする他の復元案は除外される。

*2:この櫓は天守の死角となる西桔橋門を俯瞰する位置にある。

元和度江戸城天守の考察(その3)…まとめ

資料を出尽くしましたので、まとめます。

  • 慶長度本丸・天守の工事は京大工方の中井正清が主導していたが、元和度では京大工方の中井正侶と譜代の木原・鈴木方*1鈴木長次の二人が主導した。
  • 中井正清と鈴木長次の関係は家康の頃には長次が建築した仙波本堂の経費を正清より貰ったり、禁裏造営時に旗下の大工が京に派遣されるといった正清の下に長次が位置していたが、正侶の代になると逆に寛永二条城の二ノ丸御座之間は長次の設計の図面を用い、また徳川大坂城本丸の建築では幕閣に設計案の許可を得るには長次を介する必要があり*2力関係が逆転していた。これは正清は家康に、長次は秀忠に重用されていたからである。
  • 後代の中井家資料には元和8年の元和度天守を築造したのは中井家としているが、資料や当時の中井家文書*3には御殿の表向(大屋根が必要な大広間・台所)の記述はあるが、天守についての記述は皆無。
  • また同じ中井家資料には元和5年に天守用用材伐り出しとあるが、その当時は大名の献上による切り出しが主で、幕府による用材の伐り出し*4は元和7年に鈴木長次の主導で行っている、また、慶長度天守名古屋城などとは異なり、中井家文書には元和度における用材調達の資料はない。
  • 長次が上記の用材調達を行う前に中井家が江戸に城郭とその御殿、城下町、禁裏の指図や絵図を提出している。この中には天守を描いた唯一の資料として江戸城天守の指図と建地割(2枚)があり、慶長度江戸城天守と思われる*5。これは現在も残る指図と建地割と思われる。
  • 中井家の資料や書状では元和度の工事では大工手間賃が1人当り8升から7升に削減されているが、これは慶長度に比べて木原・鈴木方の技術が向上して門・櫓・坊主部屋などが多くそちらに割り振られているからである。
  • 実際は中井方は選抜メンバーで江戸に出向いたので工数が木原・鈴木方より少なくすんだとある。これは中井方が少人数であったということであり*6、工事の多くは木原・鈴木方が行っていたと思われる。

つまり中井家が元和度天守築造を行ったという一次史料はなく、また材木の調達や当時の将軍徳川秀忠の鈴木長次への厚遇とそれに伴う長次の権勢から、中井家の史料に「秀忠のお好み」とされた元和度天守の築造*7を鈴木長次が行った可能性は高いと考えられます。

ただし、中井家がこの元和度天守に全く関わっていなかったとは言い切れません。上記から慶長度と思われる『中井家指図』、寛永度の甲良家などに伝来する各種指図は基本構造はとてもよく類似しています。そして中井家から江戸に送られた天守図面が慶長度天守のみであったことは元和度もそれらと同じ基本構造をしていた可能性が高いと言えます*8
そして慶長度は中井方単独、寛永度は木原・鈴木方単独で行われていますが、これでは技術の継承が行われていないことになります。そこで元和度では木原・鈴木方が主導で天守を築造しながらも、中井方がオブザーバーとして手伝っていたと考えてみます。逆も考えられるかもしれませんが、それは先述した力関係から城の象徴である天守は最も権勢を有した大工が担当するだろうと判断し、否定します。
この事を中井方が拡大して「中井家が天守を築造した」としたのかもしれません。

状況証拠だけなので問題は多々ありますが、本項ではこの様な結論とします。ここに書いた論も新たな資料が見出されることで、覆る可能性はあります。

一応、書きたいことは今回で書き終えたので今後は少しづつ、徳川系城郭について書いてみようかと思います。

*1:江戸大工、もしくは元の出身地である遠洲浜松大工とも言う。

*2:修正:『大坂城の歴史と構造』によると本丸御殿の設計を鈴木長次が行ったとあるので、その場合は長次の権勢が更に増していることになる。

*3:刊行されている書籍中に掲載されているものの範囲で、

*4:文書によって御殿・天守と文言が異なる。

*5:元和度の可能性も否定出来ない。

*6:同時期には大坂城の工事も行われている。

*7:ちなみに「家康のお好み」とされた慶長度天守は中井正清が築造しています。

*8:それに当てはまるのが津軽家に伝来した『江戸御殿守絵図』とも考えられます。

元和度江戸城天守の史料(その7)…鈴木長次と中井正侶の関係

今日は鈴木長次と中井正侶の両者の関係を『大工頭 中井家文書』より読んでみます。

大工頭中井家文書

大工頭中井家文書

徳川大坂城作事について

[二三五]鈴木遠江書状(折紙)
   以上
一筆申入、然者大坂御城御本丸御指図被仰付候ニ付而、有増致指図上ケ申候処ニ御材木之支度為可然ニ致指図上せ候へ由御年寄衆被仰付候ニ付而致指図進候、究ハ不致候へ共先此指図を以御材木之注文可成候、尚指図究次第跡ゟ可申入候、委細者越前殿ゟ可被仰入候条不能細筆候、恐惶謹言
 六月三日    鈴木遠江
            長(花押)
中井大和様
   人々御中

寛永二条城作事について

[二五五]鈴木遠江書状(切紙)
 猶々、大さしつニかき付致候、萬事くわしく儀ハ角太参候時具可申入候、以上 此文御城ニてかき申候所早々申候
両度之御書中拝見申候、然者二条二ノ丸おくの御座之間御このみ之間さしつ致□□さしつニてしれかね申候間おおさしつ致候、委細者角太参候時可申入候、恐惶謹言
  七月九日    長(花押)

[二二一]板倉重宗書状(折紙)
 去十六日之御状同廿一日ニ参着申候 以上
(中略)
将軍様御座所鈴木遠江所ゟ参候、指図のことく被仰付之由尤ニ存候
(後略)
 七月廿二日    板周防守
            重宗(花押)
 中井大和守殿
       御返報

なお、鈴木遠江は『元寛日記』の元和2年正月の年始祝いに「御前通ニ鈴木遠江、奈良大和、落縁ニ者諸職人並居而御禮、」とあり、鈴木長次は遠江の出身なので同一人物と思われます*1

また正清と長次の交流については

[一〇六]鈴木近江長以*2書状(折紙)
 猶以万事御取籠にて御座可有候へとも、此度相済申候へハ何とも罷不成候間、御才覚頼申候。銀子手形出申候ハヽ貴様之御人なりとも又ハ又五郎殿人成共御もたせ候て可被下候、偏々ニたのみ申候、以上
一書申入候、仍和州様路地中何事無御座御上り付被成候哉、無御心元奉存候、御ひまも候ハヽ可然様ニ可仰上候、将亦先度申候仙波本堂之入目之義、銀子之高四拾八貫弐百四拾目の和州様御くら判にて御座候、此内三拾貫目先度請取申候、残る拾八貫弐百四拾目之銀子相渡り申候様ニ其元御才覚被成へく候、幸伊丹喜之助殿其元ニ御座候間御極候様ニ和州様江御物語可有候、若銀子之儀相済申候ハヽ御大儀ニ御座候共、貴殿の人を壱人切手ニ相そへ御越候而可被下候頼申候、何事も〳〵重而可申入候、恐々謹言
        鈴木近江
 七月十日    長以(花押)
 
 松等安様
    人々御中

また後藤光次書状から、内裏工事時に遠州浜松大工(木原・鈴木方の事)が派遣されていたことが判ります*3

以上より正清の頃は鈴木長次は仙波本堂(1614年)の建築経費を、勘定奉行伊丹康勝の指示ではありながらも正清より貰うなど、中井家の下位に有ることが解ります。
しかし正侶の頃には逆に大坂城(1620〜29年)本丸指図や二条城(1624〜26年)二ノ丸御殿御座所の工事で、鈴木長次の図面や指示・仲立ちを必要としています。

(修正:『大坂城の歴史と構造』によるとこの文章は本丸御殿の設計を鈴木長次が行ったとしており、その場合は長次の権勢が上記より更に増していることになります。)

大坂城の歴史と構造

大坂城の歴史と構造

『愚子見記』には元和度天守について
「七、江戸御殿守 元和八年、寛文十一迄五十年。是ハ諸事ヲ台徳院様御好也。奉行者青山伯耆守殿。」
とあります。これまでの関係を見る限りでは秀忠の「お好み」の大工は中井正侶でなく、鈴木長次であると言えます。

*1:奈良大和は奈良法隆寺の生まれである中井大和守正清と思われ、ここからこの当時の幕府大工の双壁は彼らであった事が想像できます。

*2:長以の以は次の誤読か。

*3:『大工頭 中井家文書』[三三一]