江戸城天守の東照宮
東照宮といえば徳川家康を祀る御宮として各地に造営されましたが、江戸城内では紅葉山の東照宮*1が有名ですが、その他にも二ノ丸東照宮がありました。しかも2つもあり、1つは本丸と二ノ丸の間に、もう1つは二ノ丸御殿の一部としてあったようです。
ここで注目されるのは前者の東照宮で、これは元々は元和度江戸城天守にあった東照社(宮号はこれより後年)を寛永度天守に建て直す際に遷したものとしています。以下にその資料をあげます。
『東京市史稿 皇城編』
蠹得一得
二丸御宮今亡。 元和八年壬生戌於二御天守下一、御宮御造立(後略)
守囊
大猷院様(徳川家光)御代、権現様(徳川家康)至極御信仰被レ遊びニ付、台徳院様(徳川秀忠)ニ者御謹ニ而、元和八年御本丸御天守下ニ権現様御宮御造営被レ遊、毎月御参詣、日々御膳等献備、
問題なのは「天守下」がどこを指すかという点で、単純に考えると天守下というと天守台かもしくは天守の周辺と考えることもできます。しかし当時の神社へ対する信仰、しかも家康への信仰心が高い家光が造立したのですから、人がその上に立つ天守地階や見下ろしたり影になる位置にある天守の側に置くとは考えにくい点があります*2。
そこで、上下の関係で「上」を天守の屋根の上とし「下」を天守の内部として、天守の最上階に東照宮があったと考えてみます。同じような例は姫路城天守の最上階にある長壁神社があるので、ありえない話ではないと思います。
ここで注目するべきは既に何度かあげた津軽家の『江戸御殿守絵図』です。この絵図には最上階(5階)に「上々段 東照宮御社アリ」とあるので、先の論に当てはめればここに描かれている天守が元和度である可能性は高いと言えます。
三浦正幸の新たな慶長度天守復元案
数日前本屋に出かけた所、こんな本があるのが目に付きました。
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- これまでの名古屋城を参考にした復元案でなく、宮上茂隆氏が元和度と比定した旧津軽家の『江戸御殿守絵図』を慶長度と紹介する。
- その絵図から判断すると慶長度天守は人が窓を覗くには高い場所にあり、破風の下にある出窓の部分からしか外を望めない欠陥建築である。
- 元和度はこれまでと同じ『中井家指図』を基にし、より洗練されたものになっている。
私個人としてはこれまで述べた様に中井家は元和度天守築造を主導していないので、かの家にあるのは慶長度天守の図面と考えています。よって、この案には最初から疑問符がつきます。更には『江戸御殿守絵図』(以下、『絵図』)を慶長度とするのは様々な問題があります。
- 『愚子見記』には慶長度の棟高22間半とあるが、『絵図』では23間4尺となっている。
- 『当代記』によると慶長度の石垣は20間四方で高さは10間とあるが、『絵図』は7間となっている。
- 『絵図』の最上階に東照宮がある(慶長度が建てられたときは当然、家康は存命中)。
これらの点から三浦氏の考えには問題が多々あると言わざるをえません。
ちなみに窓をの位置を欠陥とする意見については私には建築学の心得が乏しいので、正しい判断ができません。しかし其の様な初歩的ミスをするとは考えにくいと思います。
望楼型と層塔型の建築期間
以前、
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100621/1277122137
こちらで層塔型は望楼型よりシンプルな形状と書きましたが、今回はそれを建設期間という点で見てみます。
- 望楼型
- 層塔型
このように望楼型がどれも1年以上を要しているのに対し、層塔型は長くても9ヶ月程(私の考えでは大体5ヶ月余りか)しかかかっていません。これは江戸城工事の頃から中井正清が層塔型に合った躯体(骨組み等の構造部分)工事と造作(内装関係)工事の分離や、各重毎に組分けして作業を行わせるといった作業の合理化が大きく影響していると言えるでしょう。特に、後者は各重が独立している層塔型ならではと言えます*2。
慶長度江戸城天守の考察(その10)…まとめ
確認すると慶長度については自分の考えをまとめていないので、簡単に書きます。
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100615/1276610411
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100608/1275957151
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100609/1276066502
なお、『中井家指図』には既に紹介した五重櫓以外にもう一つ二重櫓の図があります。
これについては五重櫓の上二重部分の別設計案や、天守が無い頃の象徴的な櫓である富士見櫓の前身といった説がありますが、自分としては上記に挙げた天守曲輪の西櫓と考えています。もっとも図のままでは片方の破風が多聞櫓と干渉してしまうので、片方の破風の位置を変更しなければなりませんがこれはこれはちょっとしたミスと済ましても良いと思います。
元和度江戸城天守の考察(その3)…まとめ
資料を出尽くしましたので、まとめます。
- 慶長度本丸・天守の工事は京大工方の中井正清が主導していたが、元和度では京大工方の中井正侶と譜代の木原・鈴木方*1鈴木長次の二人が主導した。
- 中井正清と鈴木長次の関係は家康の頃には長次が建築した仙波本堂の経費を正清より貰ったり、禁裏造営時に旗下の大工が京に派遣されるといった正清の下に長次が位置していたが、正侶の代になると逆に寛永二条城の二ノ丸御座之間は長次の設計の図面を用い、また徳川大坂城本丸の建築では幕閣に設計案の許可を得るには長次を介する必要があり*2力関係が逆転していた。これは正清は家康に、長次は秀忠に重用されていたからである。
- 後代の中井家資料には元和8年の元和度天守を築造したのは中井家としているが、資料や当時の中井家文書*3には御殿の表向(大屋根が必要な大広間・台所)の記述はあるが、天守についての記述は皆無。
- また同じ中井家資料には元和5年に天守用用材伐り出しとあるが、その当時は大名の献上による切り出しが主で、幕府による用材の伐り出し*4は元和7年に鈴木長次の主導で行っている、また、慶長度天守や名古屋城などとは異なり、中井家文書には元和度における用材調達の資料はない。
- 長次が上記の用材調達を行う前に中井家が江戸に城郭とその御殿、城下町、禁裏の指図や絵図を提出している。この中には天守を描いた唯一の資料として江戸城天守の指図と建地割(2枚)があり、慶長度江戸城天守と思われる*5。これは現在も残る指図と建地割と思われる。
- 中井家の資料や書状では元和度の工事では大工手間賃が1人当り8升から7升に削減されているが、これは慶長度に比べて木原・鈴木方の技術が向上して門・櫓・坊主部屋などが多くそちらに割り振られているからである。
- 実際は中井方は選抜メンバーで江戸に出向いたので工数が木原・鈴木方より少なくすんだとある。これは中井方が少人数であったということであり*6、工事の多くは木原・鈴木方が行っていたと思われる。
つまり中井家が元和度天守築造を行ったという一次史料はなく、また材木の調達や当時の将軍徳川秀忠の鈴木長次への厚遇とそれに伴う長次の権勢から、中井家の史料に「秀忠のお好み」とされた元和度天守の築造*7を鈴木長次が行った可能性は高いと考えられます。
ただし、中井家がこの元和度天守に全く関わっていなかったとは言い切れません。上記から慶長度と思われる『中井家指図』、寛永度の甲良家などに伝来する各種指図は基本構造はとてもよく類似しています。そして中井家から江戸に送られた天守図面が慶長度天守のみであったことは元和度もそれらと同じ基本構造をしていた可能性が高いと言えます*8。
そして慶長度は中井方単独、寛永度は木原・鈴木方単独で行われていますが、これでは技術の継承が行われていないことになります。そこで元和度では木原・鈴木方が主導で天守を築造しながらも、中井方がオブザーバーとして手伝っていたと考えてみます。逆も考えられるかもしれませんが、それは先述した力関係から城の象徴である天守は最も権勢を有した大工が担当するだろうと判断し、否定します。
この事を中井方が拡大して「中井家が天守を築造した」としたのかもしれません。
状況証拠だけなので問題は多々ありますが、本項ではこの様な結論とします。ここに書いた論も新たな資料が見出されることで、覆る可能性はあります。
一応、書きたいことは今回で書き終えたので今後は少しづつ、徳川系城郭について書いてみようかと思います。
元和度江戸城天守の史料(その7)…鈴木長次と中井正侶の関係
今日は鈴木長次と中井正侶の両者の関係を『大工頭 中井家文書』より読んでみます。
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[二三五]鈴木遠江書状(折紙)
以上
一筆申入、然者大坂御城御本丸御指図被仰付候ニ付而、有増致指図上ケ申候処ニ御材木之支度為可然ニ致指図上せ候へ由御年寄衆被仰付候ニ付而致指図進候、究ハ不致候へ共先此指図を以御材木之注文可成候、尚指図究次第跡ゟ可申入候、委細者越前殿ゟ可被仰入候条不能細筆候、恐惶謹言
六月三日 鈴木遠江
長(花押)
中井大和様
人々御中
寛永二条城作事について
[二五五]鈴木遠江書状(切紙)
猶々、大さしつニかき付致候、萬事くわしく儀ハ角太参候時具可申入候、以上 此文御城ニてかき申候所早々申候
両度之御書中拝見申候、然者二条二ノ丸おくの御座之間御このみ之間さしつ致□□さしつニてしれかね申候間おおさしつ致候、委細者角太参候時可申入候、恐惶謹言
七月九日 長(花押)
[二二一]板倉重宗書状(折紙)
去十六日之御状同廿一日ニ参着申候 以上
(中略)
一将軍様御座所鈴木遠江所ゟ参候、指図のことく被仰付之由尤ニ存候
(後略)
七月廿二日 板周防守
重宗(花押)
中井大和守殿
御返報
なお、鈴木遠江は『元寛日記』の元和2年正月の年始祝いに「御前通ニ鈴木遠江、奈良大和、落縁ニ者諸職人並居而御禮、」とあり、鈴木長次は遠江の出身なので同一人物と思われます*1。
また正清と長次の交流については
[一〇六]鈴木近江長以*2書状(折紙)
猶以万事御取籠にて御座可有候へとも、此度相済申候へハ何とも罷不成候間、御才覚頼申候。銀子手形出申候ハヽ貴様之御人なりとも又ハ又五郎殿人成共御もたせ候て可被下候、偏々ニたのみ申候、以上
一書申入候、仍和州様路地中何事無御座御上り付被成候哉、無御心元奉存候、御ひまも候ハヽ可然様ニ可仰上候、将亦先度申候仙波本堂之入目之義、銀子之高四拾八貫弐百四拾目の和州様御くら判にて御座候、此内三拾貫目先度請取申候、残る拾八貫弐百四拾目之銀子相渡り申候様ニ其元御才覚被成へく候、幸伊丹喜之助殿其元ニ御座候間御極候様ニ和州様江御物語可有候、若銀子之儀相済申候ハヽ御大儀ニ御座候共、貴殿の人を壱人切手ニ相そへ御越候而可被下候頼申候、何事も〳〵重而可申入候、恐々謹言
鈴木近江
七月十日 長以(花押)
松等安様
人々御中
また後藤光次書状から、内裏工事時に遠州浜松大工(木原・鈴木方の事)が派遣されていたことが判ります*3。
以上より正清の頃は鈴木長次は仙波本堂(1614年)の建築経費を、勘定奉行伊丹康勝の指示ではありながらも正清より貰うなど、中井家の下位に有ることが解ります。
しかし正侶の頃には逆に大坂城(1620〜29年)本丸指図や二条城(1624〜26年)二ノ丸御殿御座所の工事で、鈴木長次の図面や指示・仲立ちを必要としています。
(修正:『大坂城の歴史と構造』によるとこの文章は本丸御殿の設計を鈴木長次が行ったとしており、その場合は長次の権勢が上記より更に増していることになります。)
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『愚子見記』には元和度天守について
「七、江戸御殿守 元和八年、寛文十一迄五十年。是ハ諸事ヲ台徳院様御好也。奉行者青山伯耆守殿。」
とあります。これまでの関係を見る限りでは秀忠の「お好み」の大工は中井正侶でなく、鈴木長次であると言えます。