江戸城について(転載分)

最初に今、あれこれと調べている江戸城天守、その概要を説明いたします

江戸城は皆さんも御存知の通り、今の東京中心部、皇居に当たる場所にあった城郭でした。
鎌倉時代の江戸氏居館から始まると言われますが、本格的に城を築いたのは関東で室町から戦国に変わりつつある中で名を轟かせた太田道灌により長禄1(1457)に築城されました。
道灌はその後に暗殺され、江戸城は北条氏の支城になりましたが、しかしその北条氏も小田原役で滅び、代わりに関東に入国した徳川家の本拠になるわけです。

江戸城は家康が天下を取るまではその規模は兎も角、内実は他の一般的な関東の城と同じく、「土の城」でした。
江戸城が今のように多くの石垣と広大な濠を有するようになったのは家康が征夷大将軍になった後、慶長8(1603)に始まるいわゆる天下普請からで、以後は家康・秀忠・家光の三代に渡る大工事の末、江戸城は完成しました。

さて、江戸城は多くの特徴がありますがその一つに3度に渡り、天守が上げられた点があります。
それぞれ慶長12(1607)、元和9(1623)、寛永15(1638)に完成しましたが、最後の天守が明暦の大火(明暦3(1657))に焼失して以来、天守が再築されることはありませんでした。

この天守については最後の寛永度はその後、新井白石が同じ物を再建する計画(頓挫しましたが)があり、多くの史料が残されているので正確な姿が解っています。
ですが、他の二つについては様々な史料はありますが研究者によって解釈が違い、またここ十数年は議論すらあまりされていないのが現状です。

今後はこの二つの天守についての情報を出しながら自分の考えも出していこうかなと思っとります。