慶長度江戸城天守の史料(その1)

慶長度江戸城天守を知るには先ずそれについて知ることが大切です。
最初はそれについての史料を順次、書くことにします。

当代記

慶長十二年三月三日
 此日ヨリ江戸普請有、関東衆務之、先一万石役ニ、クリ石二十坪也、船ヲ以可有運送トテ、一万石分五艘宛カシ預ル、上野国中瀬辺ヨリ運之、一坪ト云ハ、一間四方ノ箱ニ一ツナリ、中瀬ヨリ一ヶ月ニ両度、此舟江戸ヘ上下、
 同年閏四月
 朔日ヨリ江戸普請、関八州、并安房信濃、越後、奥州、出羽衆勤之、関東衆百万石ヲ五手ニ分、八十万石ニテ石ヲヨセ、二十万石ニテ殿守之石垣被築、奥州伊達正宗、米澤長尾景勝、会津蒲生飛騨、最上山縣出羽守、今秋田ニ住佐竹、越ノ堀久太郎、同国溝口伯耆、村上周防守、右ノ衆ハ百万石之外、何モ堀普請勤之、此比関東普請衆ニ扶持被下、二月ヨリ之勘定ニ出也、去年ノ石垣高サ八間也、六間ハ常ノ石、二間は切石ナリ、此切石ヲ退ケ、又二間築上、其上ニ右ノ切石ヲ積合、十間殿守也、惣土井モ二間アケラレ、合八間ノ石垣也、殿主台ハニ十間四方也、


この記述の中から天守に関連することを抜き出すと

  • 天守台にも用いられていると思われる栗石(石垣と土塁の間に詰め、石垣の支えや土塁の膨らみを柔らげる小石)は上野の中瀬より舟で送られたもの。その量は1万石につき約37立方メートル(1間=6尺5寸とした場合)になる。
  • 1607年閏4月からの天守台築造工事は大名の所領100万石中、20万石の割り当てで行われた。
  • 去年までの工事で天守台は高さ8間まで完成(高さの内訳は自然石6間、切石2間)、今回の工事で切石を一旦除き、自然石を2間積み増しした上でその上に切石を積み直し、合わせて10間の高さになった。土塁も2間積増したので高さ8間の石垣となり、天守台の広さは20間四方。


最後の項目が少々、不明瞭ですが私はこう考えます。

  • 高さ10間になる天守台の内、8間の自然石は内部も土塁で固められた頂部が20間四方の石垣。
  • その上、2間の切石(ちなみにこの切石は元和(1615〜1624)より用いられる切込ハギと思われ、この当時としては非常に珍しい)はその上部に上がる天守の地階部に相当する。


この2重石垣と、上部の切石は後の天守の考察に大きく役立つので覚えておいて下さい。