慶長度江戸城天守の史料(その10)

そろそろ慶長度江戸城天守の史料も残り少なくなってきました。最後には別の天守の史料との評価が定まっていないもの、重複するものなどを挙げていきます。

先ず評価が定まっていないものとして中井家蔵の『江戸御天守』図、京都大学蔵の無題図です。

左が『江戸御天守』、右が無題図

京大蔵図も基は中井家のものであり、両者の柱間や破風の位置が一致しているので、2つの図面は同一のものとされています。この妻側(天守最上部の広い屋根がかかっているのとは異なる、短い方の面)の構造断面図と平面図は寛永時の江戸城天守の図面とは細部が明らかに異なり、慶長度か元和度の天守とされています。
また平面図には屋根勾配が一重が五寸六分、上に行くに従い二分ずつ傾斜が増し(寛永時は一重が五寸四分、上に行くに従い一分ずつ傾斜が増す)、また四重目の妻側が千鳥破風になっています(平側は唐破風と文字で書かれている。ちなみに寛永天守は四重は全て唐破風)。

参考:江戸城御本丸御天守百分一建地割(東京都立中央図書館

もう一つは浅野長晟の史書『自得公済美録』にある元和時の江戸城修築時の記録です。この時、長晟は元和度天守台の普請工事を担当することになり、この時の記録を多数残しています。その中に次の様な一項があります。

自得公済美録

九月二日松平越中守(定綱)殿に之御状
   上略
  一御殿主之儀、最前よりハ石垣三ケ一分もちいさく被仰付御沙汰之由、……


元和度の天守寛永時の天守台(現在残る天守台より1間高いもの)と同じ規模とされており、この記述から慶長度天守台が約三倍の規模を有していた大型の天守台であることが判り、『当代記』の記述を裏付けるものと言えます。

今回で、慶長度天守の史料紹介を終えます。しばらくお休みを入れた後に、次は各城郭研究者達が考えた復元案を紹介しようと思っています。
それではしばらくの間……。