慶長度江戸城天守の史料(その9)

さて昨日の続きですが、下にあげる画像は寛永17年(1640年)の江戸城本丸の図面です。


(『江戸図屏風 別冊 江戸の都市と建築』内藤昌 毎日新聞社 1972)

この画像から昨日の『慶長江戸絵図』内の天守曲輪にあたる場所を、石垣の張り出しラインから抜き出したのが次の画像です(下は『慶長江戸絵図』の天守曲輪拡大図)。


この通り、西櫓と南側に伸びる多聞櫓が残存していることが判ります。江戸城の櫓は基本的に隅櫓(角地に建っていること)ですが、この西櫓だけ平面なのは元々は本丸(そして天守曲輪)の北西端にある隅櫓だったのが、元和時の改修で本丸北側への拡張工事で石垣のラインが平面となってしまったからです。また西櫓の東側にも多聞櫓の痕跡を思わせる土盛があることが見て取れます。
このことからも慶長度江戸天守天守曲輪で構成されていたことが推察できます。

なお、天守台・小天守台があった位置を寛永17年の御殿配置に当てはめると丁度、将軍が主に寝起きや政務に用いる場所である御座之間や御休息に当たる場所にあったと思われます。
これは偶然の配置ではなく意図的なものと思われます。


上記の図面に慶長度江戸城天守曲輪の配置を重ねたもの。ただし天守台は寛永時のものを流用したので、実際の慶長度の天守台はこれより少し大きい。後、もう少し天守台の位置は西寄りかもしれない(御殿配置が窮屈になりすぎるので)。

これはこの場所が本丸の中でもっとも高い場所(標高29.5m)にあることからも推察することができます。
慶長度の江戸城はこの天守曲輪より北は二段程の出丸より構成されており、天守曲輪はその方面から攻めて来る敵を攻撃するのに最適な位置にありました。


天守曲輪からの射線が本丸北西側を全て火制範囲に収めることが可能なのが判る。

天守というのは視覚的イメージも重要ですが、この様に実戦的な意図も多く内包しているものなのです。