慶長度江戸城天守の史料(その8)

文字史料は大体終わったので、図面などを紹介します。
慶長年間の江戸を描いたものとして慶長13年(1608年)頃のとされる『慶長江戸絵図』があります。
慶長江戸絵図(東京都立中央図書館特別文庫室)

これの本城(本丸周辺や西丸)を拡大したのが次の画像です.

この当時の本丸は北側、後の大奥に当たる場所が出丸になっているのが判ります。そして赤丸で表示した部分が天守がある区間となります。
現在の本丸ではそこは本丸中央西側に当たる場所ですが、先述したように当時の本丸は南側3分の2程しかありませんでした。その意味では現在の江戸城天守台がある方角である本丸北西方向に、慶長度天守も存在していることになります。

さて、赤丸部分を拡大したのが次の写真です。

これらの位置関係を見ても明らかなように、慶長度江戸天守は姫路城や和歌山城の様な天守曲輪によって構成されていたことが判ります。また、小天守台の位置から当時の天守は北側に出入口があったことが推察できます。

さてこの天守曲輪の構成ですが絵図の構造物を示す四角の幅から、天守台と小天守台から伸びる部分は多聞櫓でなく土塀と思われます。これはおそらく天守からの射線を遮らないためであり、同様の理由で後の江戸城天守や徳川大坂城天守の様に小天守台にも櫓はなく、土塀のみが廻っていたと思われます。これは他の天守と同様に石垣の高さが高いので踊り場的な場所が必要だったからでしょう。

一方、天守の対角線上にある西櫓から伸びる部分は多聞櫓であったと思われます。家康は多聞櫓を好んだとされ、後の名古屋城篠山城にも多く設けられていました。
なお天守を始めとしたこれらの施設は後に本丸と御殿の拡張のため、殆どが撤去されることになりますが、西櫓と多聞櫓の一部は明暦の大火まで残存することになります。それについてはまた後ほどに……。