慶長度江戸城天守の史料(その7)

昨日に続いて『愚子見記』の内容を書きます。もっともそれ程、優位な情報があるわけではないですが、関連する部分を丸ごと書いてみます。

愚子見記

一、 御殿守当御代中井大和守指図覚
  権現様御代
   一、伏見御殿守 慶長六立、寛文十一迄七十一。
   二、二条御殿守 同七年立、同七十二年ニ成。
     右是ハ大和郡山ニ在シヲ此年二「条」ヘ御引被レ成、其後亦淀ヘ曳キ今ニ有之。此殿守郡山ニ有ル之時分ハ殿守モ櫓モ下ノ重側ノ柱ノ上(カミ)ヲ外ヘ冠(カブ)カセテ建タルト老人ノ語キ。以之古ノ事ヲ可量ヲモフ。郡山ノ殿守ハ春日社ノ祟有リトテ、二条ヘ曳今ニ無之也。
   三、駿河御殿守 慶長九、寛文十一迄六十八年ニ成。是ハ無程火災ス。但同年乙巳焼。
   四、江戸御殿守 同十一越、寛文十一迄六十五年ニ成也。準古鎌倉ニト也。
   五、駿河御殿守 同十二越、寛文十一迄六十四年ニ成。奉行小堀作助殿是亦後ニ火失メ今ハ外側ノ塀計也。
   六、尾張御殿守 同十五越、寛文十一迄六十一年ニ成ル。築(キツク)名古屋ニ。奉行小堀遠江守殿。作助事。
  台徳院様御代
   七、江戸御殿守 元和八年、寛文十一迄五十年。是ハ諸事ヲ台徳院様御好也。奉行者青山伯耆守殿。
   八、二条御殿守 寛永二、寛文十一迄四十七年ニ成。奉行小堀遠江守殿。右是ハ伏見ニ有シテ曳少縮メテ二条ニ立也。
   九、大坂御殿守 寛永三、寛文十一迄四十六年。奉行小堀遠江守殿。

大工作料  公儀御定之事
  一、家康公御代 江戸御作事ニ八升宛被下候。亦上方ノ御作事ニハ七升五合宛被下也。
  一、元和八年、江戸御天守御作事ニ一升減テ、江戸七升、上方六升五合ニ定ル。其故ハ是 時之作事ニ、木原・鈴木方ニ工数大分仕入候ニ付、御勘定立兼ネ申故ニ、無ニ是非作料ヲ減シ被指上候ニ仍而、此旨内通有テ之、御勘定仕上申ス。以後ニ一升通此方モ指上ケ、自夫上方六升五合ニ成ル也。其時之御作事、是方ノ坪宛(アテト)木原方ハ工数大分入増申ス故ニ下ケ申ヲ、此方モ亦一升宛下ケ御作事ニ、于今如是也。
  一、此時之御作事ニ、上方大工ハ年来(コロ)迄撰差下シ候故、表向広間八十九人坪、御台所五十六人ニテ出来也。江戸大工者寄集リ者ノ故ニ、工数之勘定不沙汰ニ依而、大分減テ被指上也。今ノ世ニハ広間抔ノ工数ハ、可ニ百人坪ノ余、此方モ今ハ准フレ之。惣而大工ノ所作昔ヨリ遥ニ劣タリト老人ノ語リキ。
  一、駿河御城始ノ炎上ノ時、中井大和自京三日馳著ク。為御褒美ト千石ニ被成下、其上五畿内并江序??Zヶ国之大工、田畠之高役御赦免也。其レ迄ハ工役ト云テ、一ヶ月ニ三日宛ハ地頭エ被ル使ハ也。然ル処ニ爾今至テ大工ノ高役為ル二御赦免一事、大和守一人之働キ故、六ヶ国ノ大工、安堵之厚恩不ル忘ル者也。

慶長度江戸城天守に関わることを抜き出すと、

  • 慶長度江戸城天守は慶長11年を越えた、つまり慶長12年に完成したと思われる。この天守は古鎌倉様式に準じている。
  • 慶長度江戸城の作事では一人に付き八升が宛てられた。

下段の記述のみでは大した意味はありませんが、その下の記述と併せると元和度天守が木原・鈴木との共同(むしろ彼らがメインで、中井がサブ)であるのに対し、慶長度は中井家が主だって造られたものであることが判ります。

上段については「古鎌倉」が何を意味するかは微妙ですが、『愚子見記』が大工の記録であることから建築様式を指していると思われます。鎌倉時代の建築様式は「天竺様(大仏様)」・「唐様(禅宗様)」があります。江戸城天守は巨大であることから、その建築様式は大仏殿などの大規模建築に用いられた「天竺様」が大きく参考になったと思います。
その天竺様の構造的な特徴として「貫(ぬき)」という水平材を多用することで、高い建物の構造を強化するという特徴があります。
wikipediaより東大寺南大門内部。横に多数組まれた水平材が貫。

天竺様はこの前後、二回に渡り中井家が手掛けた方広寺大仏殿にも用いられており、中井正清はこのノウハウを活用して、他に類を見ない巨大建築である江戸城を建築したと思われます。
方広寺大仏殿に天竺様が用いられた事について国立情報学研究所より)