慶長度江戸城天守の史料(その6)

さて天守の作事を務めた中井正清、その中井家配下の大工である平政隆という人物が法隆寺に遺した『愚子見記』という書物があります。この書物には様々な建築の内容が記述されており、その中には中井家が手がけた天守も多く取り上げています。それなりに分量があるので何回かに分けておきます。

愚子見記国立情報学研究所より)

 一、江戸御殿守 七尺間、十八間・十六間 物見、七間五尺・五間五尺
   高石ヨリ棟迄二十二間半、是権現様御好也
 一、尾張御殿守 七尺間、十七間・十五間 物見、八間・六間
   下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故、物見大キ也
 一、大坂御殿守 七尺間、十七間・十五間 物見、四間五尺・二間五尺
 一、二条御天守 七尺間、十間・九間 物見、四間・三間

 物見トハ五重目也

上段では中井家が手掛けた主な天守の規模が書かれております。下段は別項ですが城郭のそれぞれの名称などを説明した箇所で、物見が五重とあります。つまりここに書かれた天守は全て五重であるという事になります。
なお、大坂城天守の「物見、四間五尺・二間五尺」は指図の値と大きく異なる(7間・5間とされる)ので、何らかの誤記であったと考えられています。
さて最初の江戸城天守は「権現様」とあるので、徳川家康が生存していた慶長度の天守であることは間違いありません。『愚子見記』には一階と最上階の平面規模と棟高(天守台上から最上階の屋根(鯱は除く)までの純粋な建造物の高さ)が記載されています。
この平面規模は柱間という基準で書かれています。この基準は柱と柱の間を1間として数える方法ですが、江戸城天守の柱間は七尺(当時の1尺=約30.3cm:鉄尺)。
これは安土城大坂城と同じ天下人の天守の基準尺といえる規模と言えます(その意味では名古屋城も、尾張徳川家というよりは徳川宗家の天守といえるのです。その為か後に尾張家は天守のある本丸を立ち退き、二之丸に居を構えました)。
棟高は22間半。これは京間(約1.97m)と思われ、同じく京間と思われる天守台の高さ10間と1丈の鯱(1丈は10尺)を合わせれば、約67mの巨大建築となります。これは国会議事堂の中央塔(約65.5m)を上回る大きさと言えます。