慶長度江戸城天守の史料(その5)

城郭は2種類の工程を経て完成します。
1つは石垣や土塁の築造や曲輪の形状や配置を決める「普請」、もう1つはその上に櫓・塀・門そして御殿などを建設する「作事」です。
慶長度江戸城天守も同様の過程を経て、建築されました。天守台という「普請」は既に説明したので、今度は「作事」に付いて解説をします。

当時、徳川家の元で作事を担当していた大工集団は大きく分けて2つのグループがいました。
1つは木原・鈴木家といった譜代の大工衆、もう1つは京大工の中井家でした。慶長度の天守はこの内、後者の中井正清による作事であることは次の文書より確実視されています。

中井家文書(中井正清

〔一二五〕大久保長安書状(折紙)
 ……江戸御殿守之儀も貴所へ被仰付候ハん由、大御所様被成御意候、貴所父子上手之由申上候、……
 急度申入候、仍駿州御普請御材木之儀ニ付、……
  二月十五日   大石見守長安(花押)
 中井大和殿 御宿所

〔一三〇〕本多正信書状(折紙)
 ……仍 大御所様御本丸へ被為成御作事之様子御覧被成候而一段御機嫌能、一所も 御意ニ不入所無御座候条於様子可御心安候、駿府御普請之儀……
  十一月十八日   本佐渡守正信(花押)
 中井大和守殿御報

全文を読みたい方はこちらを確認して下さい。
大工頭中井家文書(六)国立情報学研究所より)

これらの書状には年が書かれていませんが、駿府城普請(1605年か1608年)の事が書かれているので慶長度の江戸城天守を指して間違いないと思われます。また、本丸御殿の作事も正清が行っていたことも解ります。
中井正清の父、正吉は豊臣秀吉の大工として大坂城の建築にも携わったとされ(現在、復元図で描かれる豊臣大坂城は中井家に残った指図を基にしている)、その弟政利は秀吉の弟秀次の大工でした。
秀次は家康が上洛した際の接待役を務めており、家康の京屋敷を家臣の藤堂高虎を奉行として建設しています。

この縁を通じて、高虎や正清は家康と関係を深くしていったようです。その高虎が縄張をした江戸城を正清が作事するのは自然と言えますし、また大建築物の経験が浅い徳川の譜代大工より、大寺院(その中には第一次の方広寺大仏殿も含まれたでしょう)や秀吉の大規模な城郭造営の経験を有する京の中井家が適任だったのでしょう。