慶長度江戸城天守の史料(その4)

ここからは新規で行きます

さて、『慶長見聞集』では慶長度江戸城天守が五重であったとありましたが、他の史料にも天守の重数について説明しているものがありますので、ここで説明をします。(参考:慶長度江戸城天守の史料(その2) - 立板の書き込み

毛利三代実録考証

   益田頼母什書
 其表之御天主七重ニ被仰付之由、定而見事にて候すると存候、よろつ御普請之趣、被及見候て可然候、

ちなみに益田頼母は萩藩毛利家の国家老を務めた人物とされています。

日本西教史

……其居城ハ、九重ノ層楼ヲ飾ルニ、黄金ノ薄板ヲ以テシ、其頂ヲ尖形ニス、……

とあります。

この様に

  • 『慶長見聞集』の「五重」
  • 『毛利家三代実録考証』の「七重」
  • 『日本西教史』の「九重」

と三つの重数が並んでしまいましたが、それぞれの史料は信頼性(例えば『日本西教史』は海外伝聞を基にしているので、信頼性はかなり問題がある)や、重の数え方(屋根の数か、中の階数か、更には屋根の数or中の階数+石垣の段数)があるので、それぞれの状況や認識でこの様に変化したと思われます(当時の人々に「重」の共通認識があったとは疑問ですし)。
どれが正しいかという考察についてはまた後ほど…。