慶長度江戸城天守の史料(その3) (転載分)

徳川家康の史料集『朝野旧聞裒藁』に記載されている、慶長度の江戸城修築記録『御手伝覚書』より
朝野旧聞裒藁

御手伝覚書

御手伝覚書載
 慶長十一年御城御普請之前御天守台築御手伝   黒田筑前

御手伝覚書曰
 慶長十二未年江戸御城御天守台并錫御門之縄張被仰付石垣築御手伝   藤堂和泉守


ただし藤堂高虎の石垣築造は『当代記』の記述(参考:慶長度江戸城天守の史料(その1) - 立板の書き込み)と矛盾します。そこで、『貞享書上』という『譜牒余録』の基になった書によると、
譜牒余録

貞享 藤堂和泉守 書上曰
 慶長十二年古和泉守江戸御城之御殿守并追手中門之御門之縄張被仰付之事

とあるので、石垣築造は誤りでしょう。

また『武徳編年集成』や『大三川志』には伊達政宗天守二重目の作事を行ったとありますが、
武徳編年集成
大三川志
『御手伝覚書』には

慶長一二年御堀之普請御手伝   政宗

とあるので誤りでしょう。それに基本的に天守の作事(家屋の建築部分の事、石垣や堀などは普請と言う)は幕府の直轄事業ですので、その点からも否定されます。

以上より

となります。
黒田長政は当時、石垣を多用した福岡城の建築を行っており、父の如水は豊臣大坂城の縄張にもあたった人物です。藤堂高虎は言わずと知れた築城の天才で、この慶長度の江戸城全体の縄張も手がけていました。

この点だけをみても、江戸城天守には当時の最高の人材が投入されているのが判ります。