元和度江戸城天守作事の史料(その2)…鈴木家の史料

http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100716/1279249998
において『中井家支配棟梁由緒書』に「元和 5(1619) 江戸城天守用木伐出」という記述がありましたが、それを否定する可能性のある史料があります。
それは尾張藩附家老竹腰家に伝わる文書で、その内には幕閣が元和度の工事で用いる用材を木曽に求める書状が複数残っています。
その中の1つを紹介します(『大日本史料』12編44冊167頁より)

 江戸御城御殿取合足ノさハら板子注文
一萬五千枚ハ、長七尺、はゝ壹尺三寸、あつさ四寸五寸(分カ)、
 以上
右之御材木入札ニ而、ね段相極申候間、木曾山へ可被仰付候、以上、
    元和七年
      酉八月十日            鈴木近江(長次)
       御奉行所
(裏書ナルベシ)
表書之御木材、木曾山ニて入札を以、鈴木近江申付候間、右之注文之木數程出させ可被成候、不及申候ヘ共、注文之外、木壹本も取不申候やうニ、堅可被仰付候、以上
                       伊喜之助(伊丹康勝)
                       松右衛門(松平正久)
                       永信濃永井尚政
                       井主計(井上正就
                       土大炊(土井利勝
                       本上野(本多正純
       竹腰山城守(正次)殿
       成瀬隼人正(正成)殿

同様の書状が檜や松の材木(寸法・数も記載)についても出されています。これらの書状は幕閣が鈴木長次を木曾に派遣して、その値段交渉をさせるので、竹腰や成瀬(彼も尾張藩付家老)に協力する事を命じている訳です。つまり御殿の材木調達は鈴木長次が行っていた事になります。
この次に記載されている書状には次のようのものがあります。

(端裏書)
「江戸御天主御材木之儀ニ、山村七郎右へ遺留」
一筆申入候、面談ニ而如申候、江戸御天主御材木之儀ニ付而、杣取其元ヘ指遣候、貴殿ゟ案内者御差添、手依能所ニ而本切仕候様ニ、被入御念、可被仰付候、將亦杣取小屋なとの儀ニ付、爰元ニ而も以使申入候間、先年之ことくニ可被仰付候、不能御分別ニ儀ハ、重而可被仰越候、恐惶謹言
    十月四日               竹山城守
     山村七郎右(良安)様

日付から先の書状と関連しているのが解ります。ここで注目するのは「天主」という言葉です。ここからは2つの仮説ができます。
1つは鈴木長次が発注した材木には天守の分も含まれていた。
もう1つは御殿と天主の用語に区別がなかった。
後者の場合は天守のみを書き、御殿には触れていない中井家の資料にも同じ事が言えます。また前者は材木を調達した鈴木長次は御殿の建築も行っているので、同様に天守も手掛けたと考えられます。よってこの史料は中井家の手による元和度天守造作説に大きな疑問を投げかけることになります。

なお、8月20日には美濃郡代の岡田善同が天守の材木の為に木曾に赴く旨の、10月4日には木曾からの材木が多く未着の件を角倉庄右衛門(玄之)に照会する書状があります。

これらについて、詳細を知りたい方は東京大学史料編纂所にあるデータベースをご参照してください。