元和度江戸城天守作事の史料(その3)…その他、材木調達について

今日は前回に記した以外の元和度工事に関わる材木調達を俯瞰してみます。

薩摩旧記増補

別帋之御状致拝見候、仍而御殿守あせり板三千枚進上之由、奉得其意候則御材木奉行衆ヘ具申渡候、當地参著次第、追々請取可申由、恐惶謹言、
                     青山伯耆
   元和五年(朱カキ)九月九日      忠俊(花押)
                     酒井備後守
                          忠利(花押)
      松平薩摩守島津家久)様尊報

あせり板は柱に板の溝を彫り上から板を落とし込んで壁にする板で、その溝が田んぼの畔道のようなのでこの名が付きました。

この他に、この年の8月に山内忠義が木数千本を献上しています(石垣用の石も献上している、『土佐來集』)。

また、『毛利家四代実録考証論断』内の元和4年5月1日書状には江戸城天守が来年に上がるとされ、6月28日の書状には石垣用の石の準備と共に材木の調達の準備にも取りかかる様に要請している事が解ります。

この他、佐竹氏家老梅津政景は元和5年5月に富士山へ天守用の材木を伐り出しています『梅津政景日記』。この後、来年の工事は延期になったとあります。実際に工事は元和7年から更に延期され、元和8年2月から天守台工事は始りました。

この様に鈴木長次以外にも多くの大名が元和5年頃から御殿・天守用の材木を献上という形で調達しています。中井家の用材伐り出しもその一環なのかもしれません。もっともこれらが本当に天守にのみ使われたかは疑問があります。イメージしやすいものとしてシンボルである天守の言葉を用いただけで、実際は御殿や櫓・門なんかに使われたという可能性もあるのではないでしょうか。

ただし、これらの内で鈴木長次が関与した木曾への注文のみが寸法を細かく規定したものであるのは特筆されます。それは元和7年という時期も理由の一つでしょうが、それ以前にこの工事の主導者が鈴木長次であるからだとも言えます。なお、『大工頭 中井家文書』には元和度工事における材木調達の書状の記載はありませんでした。

  • 今回の史料は『大日本史料』12編32冊200頁〜、37冊291頁〜の箇所を用いました。