元和度江戸城天守作事の史料(その4)…指図の提出

中井家は多くの指図を有しており、それらは現在『大工頭中井家建築指図集』で見ることができます。

大工頭中井家建築指図集―中井家所蔵本

大工頭中井家建築指図集―中井家所蔵本

その末尾の解説に元和度工事に関わっていると思われる書状が記載されているので、今回はこれを紹介しようと思います。

  江戸へ下り申さしつの覚え
一江戸三のまるさしつ
一大さかのゑず
一たいふつやうけんゐんさしつ
一京二てう御しろのゑす
一きんちうくらいの御所そうさしつ
一ふし見西ノまるさしつ
一大さか町ちうのゑす
一ゑと御しろさしつ
一京二てう御しろさしつ 二ツ
一大坂御城そうゑす 二ツ
一同大て京はしくちさしつ
一なこや御しろさしつ 二ツ
一ふしミ御しろそうゑす
一ゑどてんしゆさしつ同ざいもくちやうわり
一同 是ハ大和守ときのふるちやうなり
一ゑと御しろさしつひかえ
一大坂そうさしつ あたらしき
一同御ほんまるのさしつ 同
一ふし見ほんまるのさしつひかえ
一同ほんまるさしつ
一大坂御しろのゑす 二ツ
一かきつけのなきこさしつ
    以上
  元和七年
   七月十日

主に城郭である江戸城(江戸・ゑと)、大坂城(大さか・大坂)、二条城(京二てう)、伏見城(ふし見・ふしミ)、名古屋城(なこや)の様々な箇所の指図(平面図)や禁中位御所(きんちうくらいの御所)・養源院(たいふつやうけんゐん)の指図、大坂の町絵図(大さか町ちう)そして江戸城天守(ゑどてんしゆ)の指図と建地割(ちやうわり・断面図)が載っています。

これらは京の中井家から江戸に渡された図面の一覧で、時期的に元和8年より行われた江戸城本丸の拡張工事における参考資料と考えるのは不思議ではないでしょう。特に慶長度よりも格段に大きくなったと思われる元和度の御殿を設計するために様々な御殿の資料(城郭だけでなく、御所や養源院(これは同年に伏見城の御殿を移築したもの))が用いられたのが判ります。また、本丸の設計もこれらの資料を用いたことでしょう。

この中で注目するのが同時に建設が行われる予定の江戸城天守についての参考資料が同じ江戸城天守のみしかないことです。これは御殿と異なり、天守は慶長度の規模をそのまま踏襲したからと考えられます。もし慶長度と全く異なっていたのなら、他の天守の図面もあったはずです。問題はここにある天守の図面がどの様なものかという点で、1つは大和守の名がありますが当時は正侶は大和守ではないので正清ということになり、これは彼があげた慶長度江戸城天守であることは間違いありません。問題はもうひとつの帰属でこれは2つの説が考えられます。

  • 正清が書いた慶長度江戸城天守は建地割しか残ってなかったので、新たに指図と建地割の図を描いた
  • 元和度江戸城天守の為の指図と建地割

前者だとこれらをもとにして江戸の木原・鈴木家が元和度天守の図面を引いたことになります。後者だと中井家が元和度天守の設計者となるのです。ここら辺は断言は難しいのですが、他の指図が参考資料としての既に完成している(養源院は少々怪しいですが)建物の中で1つだけ建築予定の図面があるとは考えにくので、私的には前者と考えています。

ここで注目するのが以前出した中井家に所蔵されていた江戸城天守の指図です。
http://d.hatena.ne.jp/tateita/20100610

左の平面図と右の断面図は線の太さといった描き方が少々異なります。この点から平面図は「ゑどてんしゆさしつ同ざいもくちやうわり」、断面図は「同 是ハ大和守ときのふるちやうなり」と考えることができます。